Xデー

Xデーって、たとえいつか来るだろうと覚悟してても、実際来ると衝撃じゃないですか、けっこう。しかも、一回だけならともかく、連続するとなんだか不穏な空気も漂い始め、ファンもナーバスになるってもんです。いきなり地上戦が始まり、しかもすぐに終わらないことが分かったというか。まあ、この程度のことで事態が一気に悪化するようなことはないだろうし、むしろファンとしては然るべきステップだと考えるべきだと思うのですが、それはともかく、今からだと、とても間に合わないでしょうけど、もし今週があるのなら、「早朝、軽快にジョギングするあ〜ちゃん」「ジョギング中であるにもかかわらず、ファンに気さくにサインに応じるあ〜ちゃん」「途中、足を止め、園児に熱い視線を送るあ〜ちゃん」を盗み見する──そんな感じで、手を打っていただけないものでしょうか、フライデーさん。

ディスコ汗まみれ、

で、久々にブログを更新。人の意見に便乗しつつ、そろそろ言っていいと思うんですが、「道夏大陸」って一種のプロパガンダ動画ですよね。「情熱大陸」自体、タレントのプロモーションビデオみたいなときがありますが、それでも対象から少し距離を置いているのに比べて、この動画の場合、明らかに「泣ける物語」に導こうとしている。いや、人がそういう物語に感動することにケチをつけたくないし、イントロダクションとしての効果も否定しないんですよ。ただ、感動しつつ、この数分間で人の苦労を分かったつもりになるのもどうかなぁと自戒する気分にもなってしまう。それに感動をベースにしたとき、Perfumeの本当の魅力──それがなにかはさておき──を殺ぐ恐れがないとは言えないでしょう。実際、音楽とかダンスとかトークとか、一回々々のパフォーマンスには、そういう物語を超えた部分が必ずあるはず。裏を返せば、パフォーマーには無責任に楽しむ部分が必要で、そのときファンは見方を限定せず、それをどんどん消費して応えるべきだと思います。……という、なんか当然といえば当然のことを書いたのは、ファンが増えて、ホールでライブできるようになったのはいいけど、あまり画一的にならないでほしいなあと思っているからでした。

TSUTTaaaaaaaaaaN!!!!!

「広島!」展@Vacant、3月19日〜22日

書籍「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」刊行に合わせ、広島市現代美術館で展示中止となった作品――リアル造形の技術で実物大の丹頂鶴を制作した立体作品「リアル千羽鶴」と、騒動まで発展した、飛行機雲で「ピカッ」の三文字を描いた記録映像作品「ヒロシマの空をピカッとさせる」を3日間だけ展示いたします。http://www.mujin-to.com/cphiroshimainfo.html

さて、記録映像作品は「ピカッ」という例の三文字を数分間かけて描く様子を撮影したものでした。完成した作品を見るべきと考えてはいたものの、これは正直やや肩透かし。画像を何度も見たので感覚が麻痺していたのかな。想像していたものが想像通りに上映されていたという感じです。いや、論争的な作品は得てしてそういうもので、この過不足のなさ、空っぽさがリアルであり、間延びした牧歌的な雰囲気が逆にテーマの深刻さを浮かび上がらせているといえなくもないんですが……。
気になったのは、今回の上映が映写条件も解像度も良くなく、擬音自体が喚起するシャープな印象からは遠いこと。この擬音は本来、一瞬の閃光を表現していますから、瞬時にして全体の状況を伝えられる写真(だけ)のほうが、この作品に向いているはず。実際、記録映像には記録映像の意味があるんだろう、と視てみても、撮影時の周囲の状況や反応はとくに明かされないので、首を傾げてしまいます。

2ちゃんねるでは「CGで済むものを、なぜ?」とよく言われていたけど、たしかにこれなら写真にしろ映像にしろ、CGで済むかもしれません。「CGで描くか、飛行機をチャーターするか」。これについては予算も大違いだし、メンバー間でもそれなりに議論されたはずですから、いっそのこと、映像やテキストとして記録してあるなら、アイデアが固まる打ち合わせの様子も、そして借金してまで制作に踏み切った過程も、同時に記録&公開すればよかったのではないか……とも思うんですが、本もできたことだし、それは展示とは別の話なのでしょう。
ただ、Chim↑Pomは一貫してCGなどに頼ることなく、実践することに意味を見いだし、実際、それによってインパクトを与えてきたグループなので、わざわざ飛行機をチャーターしたことは自然にも思えます。
ちなみに、この作品では原爆を表す語として一般的な「ピカ」ではなく「ピカッ」が選ばれていますが、それは擬音の擬音らしさを強調するためというより、むしろ、ときに被爆者への差別を意味する前者の使用を避けるということなのかもしれません。
画像はwebDICE(http://www.webdice.jp/dice/detail/1020/)が中国新聞から引用したという画像の再引用と、それを加工したものです。
[rakuten:book:13162483:detail]

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか

Chim↑Pom問題をめぐる単純にして大きな誤解

webDICEがChim↑Pom問題についてまとめ、業界関係者(?)からアンケートをとっている。→http://www.webdice.jp/dice/detail/1103/

【質問1】
Chim↑Pomは謝罪するべきだったのか?するべきではなかったのか?

【質問2】
質問1で回答した理由を教えてください。

【質問3】
中国人現代美術家・蔡國強(ツァイ・グオチャン)の作品「黒い花火」と、Chim↑Pomの今回の作品「ピカッ」との違いはあると思いますか?

【質問4】
質問3で回答した理由を教えてください。

とりあえず、結論から。(1)「ピカッ」は作品ではない。そして、(2)仮に作品であるなら、なおさら謝ってもしかたないのでは?
まず(1)について。たんなる不注意なのか、それとも議論を誘うつもりなのか、上の質問では、あの「ピカッ」を作品として認めている。でも、そもそも、あれは作品ではなく、制作過程に露出したひとつの出来事にすぎない──という言い方も誤解を招きやすいが──ということをChim↑Pom自身が発言していたはずだ。だから、Chim↑Pomが今回謝ったのは、制作過程に不手際があったために、予期せぬ不快感を与えたことに対して、なのだ。
次に(2)について。仮に「ピカッ」が作品として発表されていた場合、Chim↑Pomは謝るべきか、謝るべきではないのか。……これはChim↑Pomの勝手としか言いようがない。ただ、ここで違和感を覚えるのは、そういう問い自体、そもそも一度発表した作品をめぐる行為としては成立しないのではないかということだ。
作家は作品について謝ってもしかたがないはずだ。それは謝るべきではないということではなく、「それ」を作品として認めることは、その公共性を認めることでもあるのだし、そんな謝罪はナンセンスということだ。たとえば「私はこんな作品をつくりました。すみません」などという話は間抜けすぎて、ほとんどギャグにしか思えないのだが、どうだろうか。一方「こんな作品をつくりました。でも、よく考えたら良い作品ではないと思う。今は反省している」ということなら、分からないでもない。それは道徳の問題ではなく、作品の出来の問題だからだ。
ようするに、発表してしまった芸術作品ついて、作家が謝ることは原理的に無理があるわけだ。もちろん、そんな原理を無視し、謝まって済ますというなら、それこそ作品をつくることをやめるべきなのだろう。あるいは、それが不本意な作品であり、自身の所有物であれば、廃棄することくらいはできるかもしれないが……。
まあ、世間というかネット言論は、作品(芸術)であればなにをやってもいいというような態度については厳しいが、それが作品であるか否かなんて、どうでもいいことなのかもしれない。でも作家はもちろん関係者にとって、それが作品がであるか否かは、曖昧にできない根本的な違いであるはずだ。
ともあれ、今回の件については紙媒体よりもネット上での反響のほうが大きいような印象があるのだけど、どうも以上の2点が曖昧にされ、それが単純にして大きな誤解につながっているように思えてならない。ただ、Chim↑Pomの活動を見続けてきたものとしては、展覧会という直後の発表の機会を、彼らが自ら奪った(奪うように促された?)ことが残念だけど、少なくとも一連の騒動は、Chim↑Pom(アート)と世間の距離が多少なりとも明らかになった点において、有意義だったのかもしれない。
ところで、やはり気になるのはこの部分。

担当学芸員は、「広島では「ピカツ」は認められない。やるならばゲリラでやるしかなくなってしまう」、と忠告した言葉を、ゲリラでやればいいと受け止めた誤解によると、後に担当とChim↑Pomの間で確認した。

21日におこなったとき、美術館の学芸員も撮影現場の平和記念公園に立ち会った。

学芸員は別人ということだろうか? 同一人物が忠告しつつ、現場に立ち会ったということなら、変な話ですね。