『大日本人』と『しんぼる』

大日本人』は疑似ドキュメンタリー風に撮られたヒーロー特撮もののパロディであり風刺、つまり既存の文化や歴史をふまえているという意味で、意外にもまともな映画だった。一方、『しんぼる』は宗教的なヴィジョンを衒いもなく見せた、私生活を映さないプライベートフィルムのようなものだから、通常なら大規模に公開されるような作品ではないでしょう。それでも松本人志作品である以上、そういうわけにはいかないのだとしたら、皮肉な話。主演が松本以外で、さらに監督名も伏せられていたら、もっと作品自体が注目されるんだろう。口コミで広まったら面白い。
でも、雑誌やWebのインタビューでは、たしかに自分が出なければ楽だが、そもそも(名のある)役者を立てることにも違和感を覚えるし、なにかと面倒な気がする、というようなことを言っているので、今後もそういうことはないのかもしれない。とはいえ、他人に演技をつけるのは苦手ということは、たんに自分が出ないで作品が成立すること自体に馴染んでないだけということにも思えるんですが……。
ちなみに今日はシネマハスラーのお題が『しんぼる』なので、その前に指摘したいのが、これ。「ウルトラマン的な造型のヒーローをアメリカの象徴に見立てるのって(えっ、あれってそういうことだよね?)、どう考えてもズレてる」。いや、沖縄出身の金城哲夫の企画・脚本による「ウルトラマン」シリーズにおいて、ウルトラマン在日米軍地球防衛軍自衛隊だから、『大日本人』の松本の狙いは正しいんですよ。成田亨によるウルトラマンのデザインは仏像をモチーフにしていますが。シネマハスラー自体は生放送では珍しいガチンコ批評としていつも楽しみにしてます。
[追記]
シネマハスラーを聴いた。「30分以上の長尺に向いてないのではないか」「無声映画というわりに言葉のニュアンスに頼っている」「メキシコのシークエンスに見応えがない」など、概ね同意。ただ、尺の問題については、たしかに『しんぼる』はそもそも90分にすべき企画なのか疑問だが、かといって松本人志が90分の作品に不向きなのかどうかは分からない。それから「壁から出てくるものが、日本的なものばかりで全然外国向きではない」という指摘は少しズレている。たとえば普遍的な食という意味で、鮨ではなくハンバーガーかなんかにすれば問題解決かといえば、それはそれでまた別の文脈を背負うことになるからだ。というか文脈を背負わないものなど存在しないのだから、適度に日本的なもので正解だろう。それに鮨と醤油の組み合わせなんて、だれにでも理解できるはず。あと、例の「6巻」は、たしかにどこかで使えそうなのだけど、「あのとき欲しかったのに今ごろかよ」というパターンの笑いは醤油のときにすでに使われているので、あえて控えたんじゃないだろうか?
ともかく、松ちゃんと映画が出会ったとき、どんな化学反応が生まれるのだろうか、と期待する人間は多いはず。だが、両者は水と油のように混じらないまま、あるいは少なくとも未だ適当な距離が見つかってないように見える。実際、本人やスタッフが「新しい」とか「無声映画」とか言っても、あいにく映画を知り尽くした人の発言というより、余計な一言のようになってしまっているのだ。とはいえ、もちろん、そんなギクシャクを含め、あの松っちゃんが映画に挑戦すること自体がエンターテインメントであることは間違いなく、次回作にも期待しちゃうんですよね……。