Chim↑Pom問題をめぐる単純にして大きな誤解

webDICEがChim↑Pom問題についてまとめ、業界関係者(?)からアンケートをとっている。→http://www.webdice.jp/dice/detail/1103/

【質問1】
Chim↑Pomは謝罪するべきだったのか?するべきではなかったのか?

【質問2】
質問1で回答した理由を教えてください。

【質問3】
中国人現代美術家・蔡國強(ツァイ・グオチャン)の作品「黒い花火」と、Chim↑Pomの今回の作品「ピカッ」との違いはあると思いますか?

【質問4】
質問3で回答した理由を教えてください。

とりあえず、結論から。(1)「ピカッ」は作品ではない。そして、(2)仮に作品であるなら、なおさら謝ってもしかたないのでは?
まず(1)について。たんなる不注意なのか、それとも議論を誘うつもりなのか、上の質問では、あの「ピカッ」を作品として認めている。でも、そもそも、あれは作品ではなく、制作過程に露出したひとつの出来事にすぎない──という言い方も誤解を招きやすいが──ということをChim↑Pom自身が発言していたはずだ。だから、Chim↑Pomが今回謝ったのは、制作過程に不手際があったために、予期せぬ不快感を与えたことに対して、なのだ。
次に(2)について。仮に「ピカッ」が作品として発表されていた場合、Chim↑Pomは謝るべきか、謝るべきではないのか。……これはChim↑Pomの勝手としか言いようがない。ただ、ここで違和感を覚えるのは、そういう問い自体、そもそも一度発表した作品をめぐる行為としては成立しないのではないかということだ。
作家は作品について謝ってもしかたがないはずだ。それは謝るべきではないということではなく、「それ」を作品として認めることは、その公共性を認めることでもあるのだし、そんな謝罪はナンセンスということだ。たとえば「私はこんな作品をつくりました。すみません」などという話は間抜けすぎて、ほとんどギャグにしか思えないのだが、どうだろうか。一方「こんな作品をつくりました。でも、よく考えたら良い作品ではないと思う。今は反省している」ということなら、分からないでもない。それは道徳の問題ではなく、作品の出来の問題だからだ。
ようするに、発表してしまった芸術作品ついて、作家が謝ることは原理的に無理があるわけだ。もちろん、そんな原理を無視し、謝まって済ますというなら、それこそ作品をつくることをやめるべきなのだろう。あるいは、それが不本意な作品であり、自身の所有物であれば、廃棄することくらいはできるかもしれないが……。
まあ、世間というかネット言論は、作品(芸術)であればなにをやってもいいというような態度については厳しいが、それが作品であるか否かなんて、どうでもいいことなのかもしれない。でも作家はもちろん関係者にとって、それが作品がであるか否かは、曖昧にできない根本的な違いであるはずだ。
ともあれ、今回の件については紙媒体よりもネット上での反響のほうが大きいような印象があるのだけど、どうも以上の2点が曖昧にされ、それが単純にして大きな誤解につながっているように思えてならない。ただ、Chim↑Pomの活動を見続けてきたものとしては、展覧会という直後の発表の機会を、彼らが自ら奪った(奪うように促された?)ことが残念だけど、少なくとも一連の騒動は、Chim↑Pom(アート)と世間の距離が多少なりとも明らかになった点において、有意義だったのかもしれない。
ところで、やはり気になるのはこの部分。

担当学芸員は、「広島では「ピカツ」は認められない。やるならばゲリラでやるしかなくなってしまう」、と忠告した言葉を、ゲリラでやればいいと受け止めた誤解によると、後に担当とChim↑Pomの間で確認した。

21日におこなったとき、美術館の学芸員も撮影現場の平和記念公園に立ち会った。

学芸員は別人ということだろうか? 同一人物が忠告しつつ、現場に立ち会ったということなら、変な話ですね。