「正々堂々と狡くあれ」

2004年6月4日、WBA世界フェザー級タイトルマッチが行われ、挑戦者佐藤修が王者クリス・ジョンに敗れた。解説の畑山隆則は試合中何度も「(佐藤選手の戦い方は)正直すぎます」ともどかしそうに指摘していたが、実際この試合の流れを一言でいえば、佐藤は試合巧者のチャンピオンのアウトボクシングに正攻法で仕掛けるが、とうとう攻略できなかったということになるだろう。試合後の佐藤はさばさばした様子だったのだが、勝利にこだわるならば、もっと「汚く」いってもよかったのだ。だれもが知るように、スポーツ(ゲーム)における勝利は往々にして、ルールを最大限に活用したものにもたらされる。実力が伯仲しているもの同士の対戦ならなおさらだ。

とはいえ、畑山は反則スレスレの行為を勧めていたわけではなく、「正直すぎる」という批判はむしろ、佐藤の愚直な戦い方に向けられていた。佐藤が所属する協栄ジムの会長が苦々しく振り返ったように、ジョンのパンチはどちらかといえば、倒すことより、ポイントの獲得が目的だった。この点において、佐藤はジョンを上回ることがなく、技術的に劣っていたというほかない。畑山は「正々堂々戦うべきではない」と主張していたわけではない。ようするに道徳的なレベルではなく技術的なレベルについて語っていたはずなのだ。にもかかわらず、「正直」という言葉を選ぶところに、今日のスポーツ観についての、何がしかの“含み”が感じられないだろうか。

ここでの「正直」に対立するのは「ずる賢さ」だろう。スポーツ(ゲーム)は基本的に、ずる賢くなければ勝てない。すでに述べたように、勝者は往々にしてずる賢く、ずる賢いものが往々にして勝者たりえる。けれども私たちは、勝つにしろ負けるしろ、プレイヤーに「正直さ」を求めがちだ。ずる賢いだけの勝者を好まず、むしろ「正直すぎる」敗者に感情移入することさえあるだろう*1

このような問題において示唆的なのは、2000年のシドニーオリンピックにおける柔道男子100キロ超級の誤審問題だ(http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/column/2000/ZZZT6DTP32D.html)。このとき多くの日本人にとって意外だったのは、NHKの有働アナが生放送の番組で、悔しさのあまり思わず嗚咽をもらしたことよりも、篠原信一の対戦相手ドイエ(フランス)が金メダルを辞退しなかったことではないだろうか。さらに、あろうことかドイエはその後来日して、フジテレビの「ジャンクSPORTS」に出演し、笑顔で試合を振り返っているのだ。一般的な日本人の感覚からすれば厚顔というほかないだろう。ドイエにとって「正直さ」とは、尊重すべきか否かというレベルにさえなく、勝負に介在しようのないものなのかもしれない。

もちろんこれは極端な例だ。フランスにフェアプレイという概念がないとも思えない。おそらく正確にいえば、ドイエにとっては、「正直さ」が無意味なのではなく、無意味な「正直さ」があるということなのだ。実際、スポーツと道徳の関係は、国や文化によってさまざまだろう。また、状況や立場によって、非難されるべき「ずる賢さ」が、容易に、尊ばれるべき「賢さ」に反転することだってあるはずだ。

このように、スポーツが道徳的な観点で見られているとしても、その基準を正確に示すことは容易ではない。また、道徳から自由な、無垢な視線でスポーツを観ることも難しいだろう。それゆえ、スポーツ選手はつねに、「正々堂々と狡くあれ」という矛盾した要求に応えるように期待されているはずだ。そして、観客はたんに超人的な能力や非日常的な出来事を目撃したいだけではなく、ときにはそれ以上に、選手の戦い方(駆け引き)に道徳的(物語的)に納得したいのではないだろうか*2

──と、以上のような、ある意味当たり前なことを考えてみたのは、「週刊少年マガジン」で連載中のボクシング漫画『はじめの一歩』における、朴訥な一歩と老獪な武との激闘の結末に、まさに自分が、ちょっと癒されそうになってしまっていることもきっかけになっている。いや、それはともかく、スポーツ漫画(とくにボクシング漫画)は、勝負事における納得のいくオチ、つまり最大公約数の妥協点とは何かを考えさせるという意味で、けっこう重要な気がするのだ。

*1:賭博黙示録カイジ』の利根川なら「それは負け犬の理屈だ」と言うかもしれない。

*2:ちなみに蓮實重彦(草野進)と渡部直己は『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(ASIN:479176109X)で、日本のプロ野球に癒しが求められていることを嘆いてはいなかっただろうか。