与太郎問題

最近、落語好きのあいだで話題になっているという、「与太郎モノの落語は慎重に」というタイトルの投稿。

東京浅草まで手軽に行けるので、寄席によく足を運ぶ。下町情緒に浸りながら、真打ち歌丸師匠の話に耳を傾けるのが楽しい。師匠の「透けて見える世の危うさ」(13日朝刊「私の視点」)を読んだ。昨今の落語ブームは「ギスギスした世の中の反動じゃないか」との指摘に納得した。
ところで、うちの近所では、母親に付き添われて児童発達支援センターに通うであろう子供たちが朝、バスに乗る。意思伝達に不自由な彼らが、どのように歩んでいくのかと思い、心が痛む。そんな彼らを見ているので、与太郎モノと呼ばれる落語が気がかりだ。
知恵の足りない与太郎が大家に笑いものにされるという類の筋書きだ。昔なら笑いを誘ったネタかもしれない。でも現代は弱い者いじめに通じ、親たちを深く悲しませるに違いない。少なくとも師匠の言う「聴いた後ジーンと来る、ほのぼのとする」話ではない。こんな話はかなり減ったが、落語家の皆さんには更に慎重に扱って頂きたいと思う。(07年1月23日付『朝日新聞』12面の「声」欄より)

落語ファンのなかには「(この投稿者は)与太郎を誤解している」と指摘するひとがいる。たしかに自分が知るかぎりでも、与太郎は必ずしも知恵が足りないわけではない。だから「与太郎を笑いものに云々」という話は的が外れているように思える。
また、「そもそも落語は道徳の教科書ではない」と批判するひともいるようだ。「らくだ」「黄金餅」といったアナーキーな噺もあるように、たしかに落語は別に「道徳の教科書」とはかぎらない。けれども、かといって物語を扱う落語が道徳的な見方から自由であるわけがない。それに落語は実際、人情噺も多いわけだから、この批判は必ずしも妥当ではない。
ところで、ここで気になるのは「笑いものにされる」という表現だ。弱者を嘲笑してはいけないという理屈は建前として当然なのだけど、そもそも「笑い」とは「だれかを笑う」ことではないんだろうか?
たとえば「働くおっさん劇場」は特定のおっさんを笑っている。嘲笑のニュアンスがなくもなく、それゆえ否定的に見るひともいるかもしれない。でも「笑い」というのは、つねに多少なりとも差別的な認識が含まれるものであり、その背後には「これが許容されるか否か」「許容されるにしても、どのように許容されるのか」という緊張が横たわっているものではないだろうか。笑わせられるかどうかは判らない。笑わすことができるとしても、それは誤解の上に成立するのかもしれない。別に難しく考えることはないけど、この番組もそんな微妙なバランスのうえで、つくられているはずだ。だから、番組スタッフの思惑を外れ、「これはいじめではないか」と嫌悪感を抱くひとがいることも容易に想像できる。それどころか、いじめを肯定していると勘違いする視聴者もいるのかもしれない。でも、そもそも、他ならぬおっさん自身が出演を望んでいるならば、部外者が番組を批判することは難しいだろう。
とはいえ、ここで引っかかるのは、笑われるひとの判断力が、あまり期待できない場合はどうすべきなのかということだ……。ともあれ、対象が「与太郎」であろうと「おっさん」であろうと、そして「発達障害者」であろうと、「慎重に」というのは心情的にはもちろん、時勢的にも理解できる一方、万人の快のために表現を自粛しつづければ、それこそが最悪の事態を招くことになるのではないかと思ってしまう。

■追記。あまり関係ないけど、『週刊少年マガジン』がアスペルガー症候群といじめをテーマにした漫画を2週連続で掲載している。