『エレファント』の「美しさ」

コロンバイン高校銃乱射事件をモデルにした映画『エレファント』には、息を呑むような美しい場面ばかりがある。校内と校外を滑らかに行き来し移動するカメラは、何人かの高校生に焦点をあわせ、何度か被写体を替えながら、時間と空間を縫っていく。次々と線が描かれ、それらはときにからみあい、すれちがう。徐々にサスペンスがかたちづくられるものの、ここには事件を説明するようなものはほとんどない。およそ無意味というほかない彼らの会話や身ぶり、仕草、歩く姿、あるいは、何かと何かがぶつかり、擦れあう音、ざわめき、反響が──そして犯人の少年が弾く下手くそなピアノでさえ、ただただ美しい。廊下でひとりの男子生徒と視線を交わし、それをきっかけにとりとめない噂話をふくらませながら食堂に向かう女子生徒三人を追っていたカメラが、何かに誘われるように不意に奥の厨房へと迂回し、(おそらくホワイトバランスの関係で)オレンジ色の室内灯に照らされた、ラストシーンの舞台となる狭いスペースを一瞬速度を落として通り抜け、日光の明るさと喧噪に満ちた食堂にもどり、窓際のテーブルについた三人をふたたびピタリと視界に収める──この一連のショットはとりわけ印象的だ。だが、それをどのような美しさというべきだろうか? 
この映画を見るかぎり、作者のガス・ヴァン・サントに事件についての見解を問うことはおそらく無意味だ。彼はこの映画において、不条理なオチになることを避けるべく、最小限の伏線を張ってはいるものの、事件の因果関係を明らかにすることはない。つまり『エレファント』は「なぜこのような凄惨な事件が起きたのか?」という世間的な関心に応えることはないし、むしろそのような下世話といってもいい期待を相対化、あるいは意図的に無視しているようにすら見える(その点は爽快でもあるだろう)。ほぼ一貫して水平方向に移動し、切り換わるカメラワークと対照的に、挿入された空のカットは、事件とその部外者である観客とを結び付ける役割を果たしている。
私たち観客はおよそ事件の当事者ではありえない。けれども、この銃乱射事件はあまりに有名であり、『エレファント』がそれをモデルにしていることもよく知られている。それゆえ私たちは、ことの顛末を知りつつも、映像と音響に身を任せることになる。そこには、事件の勃発を予期するがゆえの緊迫感と、結末を知るがゆえの絶望感こそが、美しさを増幅するという仕掛けも働いているのだろう。
米国の暗部を描き出す強烈なブラックジョークとして知られる映画『ストーリーテリング』にたしかこんな台詞があった。「晴れていれば何もかも美しく見える」。これは冴えない自称映画作家が冴えない高校生を追うドキュメンタリーにおけるナレーション、つまり劇中劇の台詞であり、もちろん皮肉だ。結局、露悪趣味ともいえるこのような映画とは対照的に、『エレファント』は「何もかも美しく」、「エリーゼのために」のように奏でられた追悼というべきなのだろう。
最後の場面、厨房の奥に追い詰められた男女に、交互に銃口を向けながら犯人が唱える「ど・れ・に・し・よ・う・か・な♪」は偽の偶然性を表している。ふたりはともに殺される運命にあるからだ。一方、「主人公の少年はなぜ助かったのか」「なぜ犯人のふたりに校舎に入らないように助言までされたのか」といえば、それは「(美しい)主人公だから」としかいいようがない。私たちは事件の目撃者であり生き証人ともいえる主人公に同一化し、最終的に救われることに安堵するだろう。目を背けるように静かにカメラが後退し、暗転するカットは象徴的だ。以上のような審美的な処理をめぐる判断が、評価の分かれ目になるのではないだろうか*1

*1:たとえば、蓮實重彦は本作の美しさを絶賛している。ただし根拠は不明。煽りかな?(『nobody』12号、『Invitation』2004年3月号参照) また、塩田明彦は同じく『nobody』12号のインタビューで、殺人場面の省略的な描写について、リアリズムが徹底されてないと批判していた。『月光の囁き』や『害虫』の監督ならではの発言か。