「『ボウリング・フォー・コロンバイン』演出問題」を検証してみる

日本での公開を目前に控えたマイケル・ムーアの『華氏911』が話題になっている。町山智浩アメリカ日記(http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040715ほか)によると、ブッシュ政権とマスコミへの痛快な批判が見どころとなっているようだ。一方、ムーア万歳的なムードにあえて(?)水を注す向きもある。唐沢俊一岡田斗司夫の対談「マイケル・ムーアとプロレスの同一性」(『創』2004年8月号)がそれだ。この対談では、ドキュメンタリーとプロパガンダの違い(ドキュメンタリーのあるべき姿)、日本と欧米の民度の差(メディア・リテラシーの問題)など、今後も議論になりそうなテーマが扱われているのだけど、ここでは事実関係について、ひとまず指摘しておきたい。
岡田氏は『ボウリング・フォー・コロンバイン』はドキュメンタリーではないと批判する。ドキュメンタリーの条件や定義については、とりあえず置いておこう。問題は、彼がその批判の根拠として、切り返しがあること、カメラがひとつではないことを挙げていることだ。そして後者についてはおそらく間違っている。切り返しがあるゆえに、カメラがひとつではないと岡田氏は推測しているようなのだけど、もちろんカメラがひとつであっても切り返しそのものは可能である。
さて、問題となっているのは、この映画のヤマ場、チャールトン・ヘストンへのインタビューの場面。ムーアは、コロンバイン高校銃乱射事件をきっかけに、アメリカ人と銃の関係、銃社会の実態を手際よく紹介し、さらに、なぜアメリカでは銃による事件が多発するのかを問う。そして、最後の「獲物」として選ばれたのがヘストンなのだ。六歳の少年が六歳の少女を射殺するという事件の翌日、現場のすぐ近くで全米ライフル協会(NRA)の集会が開かれ、会長であるヘストンは銃所持の権利を擁護する勇ましい演説で拍手喝采を浴びた。そこで後日、アポなし突撃取材を試みたムーアは、「ぼくもNRA会員なんです」という自己紹介で警戒を解くことができたのか、見事に“ラスボス”の豪邸に招待されることに成功した。席につくと、会員証を示して媚びを売り、まるで図太く敏捷なドラ猫のように相手の懐に忍び込むと、一転して銃の必要性を執拗に問う。狼狽したヘストンは、なおも問いかけるムーアのインタビューを拒絶するように部屋を退出する──。
続く場面には、中庭を通り、別の棟に移動するヘストンをとらえるカットと、死んだ少女の写真を掲げながら、ヘストンに声をかけるムーアをとらえたカットの切り返しが、たしかにある。本作においてもっとも静かで劇的な場面だろう。ただし、これらのすべてが二台のカメラによって同時に撮影されたものかというと、カメラの位置と角度からいって、それはありえない。おそらく、写真を掲げるムーアのバスト・ショットは、あとから撮影されたものだ。以上の場面は、カメラがひとつでも十分に成立するし、ふたつである必要はない。
ちなみに、この切り返しをしめくくるように、ムーアのバスト・ショットから、大きくパンして、建物の中に隠れていくヘストンをとらえるショットは、ワン・カットのように見えるけど、じつはふたつのカットを豪快につないだものだ。このような編集によって、それまでのカットがすべて一度に撮影されたかのように錯覚させる効果が生まれている。また、中庭の空間を明快に表現しているとはいえないものの、十分に感情移入していた観客は、すれ違いを起こしたふたりのあいだに生まれた「距離」を鮮やかに認識するにちがいない。このようなつなぎは、やはり現場で考え付いたのだろうか。ムーアの機転と判断力の良さが光るシーンだ。
いずれにせよ、『ボウリング・フォー・コロンバイン』がドキュメンタリーか否かといえば、ドキュメンタリーらしからぬ演出が加えられていることは明らかだ。実際、つねにここまで巧妙かつ周到ではないにしろ、この映画が、ほぼ全編に渡って、細部までつくりこまれた、ドキュメンタリーらしからぬノリを保っているのは一目瞭然だ。また、この作品をプロパガンダとするのも間違いとは思わない。ただし、カメラはひとつでなければならないといわんばかりの岡田氏は、ドキュメンタリーの概念に厳密すぎるのではないかと思わざるをえない。いや、むしろ今日においては、社会的リアリズムとしてのドキュメンタリーという概念が、成立しにくくなりつつあると考える必要もあるのではないだろうか……?*1

*1:参考のため対談から抜粋。「唐沢 そもそも全くウソのないドキュメンタリーというのはあり得るのか。カメラを向けた時点で、何を映すかという撮り手の意思が入った時点で、それはもう演出といえる。//岡田 ただ“演出”と言ってしまうと、あまりに軽々しくウソを容認することになりますよね。事実を強調するための演出はアリだとは思うんですけど、ムーアが撮ってる手法は客観的事実のように見せかけて、自分の主張をするというものでしょう。プロパガンダとドキュメンタリーには差がありますよね。ドキュメンタリーは取材してきた事実から見えてきた主張を見せるけど、プロパガンダというのは、最初から主張があって、それに合わせ事実を曲げていく。」