『呪怨』と『稀人(まれびと)』

呪怨』はホラー映画ではなく、ドッキリ映画というほうがふさわしいのではないか。もちろんテレビ・バラエティでいうところの「ドッキリ」とはちょっと違う。清水崇中原昌也との対談で、幼いころ弟を驚かすことばかりを考えていたというのだけど、実際『呪怨』のカット割りや画面構成に、そのような経験や関心がベースにあることはよくわかる。ここでは、最小限の手段で、いかに最大限のドッキリ的効果がえられるかという課題に対する、模範的な解答が与えられている。清水はまた、『呪怨』はお笑いスレスレの映画であり、そもそもある意味では笑われてもしかたないような表現や設定を、いかにそうではないように認識させるかが最初の課題だった、というようなことも語っていた。つまり裏返してみれば、『呪怨』という映画は、驚きという効果を追求するプロセスで、笑いでもありえたかもしれない表現を、恐怖に変換しようとした実験ともいえるのだ。
呪怨』で語られるのは恐ろしい物語ではなく、お化けのような存在がいかに遍在し、いかに転移していくかという──ある意味他愛のない──現象だった。身の回りの不審な出来事に怯える伊東美咲が、逃げるようにして自宅のあるマンションのエレベーターに駆け込み、一安心する場面は、もっとも分かりやすく(極端に?)清水の姿勢を表しているかもしれない。上昇するエレベーターのなか、ドアに背を向ける伊東を俯瞰気味にとらえたショットは、二階、三階、四階と、階を通過するたびに、ドア窓越しに内部を覗き込む“同じ”白塗りの少年を映し出す。その数、少なくとも三回。これはおそらく清水ならではのサービス精神が発揮された場面で、ちょっとした映画ファンなら戦慄するより、思わず吹き出してしまうところだろう。
ただしここで結論を言ってしまえば、このような驚き(アクション)の効果を純粋に追求するために、登場人物ごとにエピソードを分割させ、それらを大きな物語へと連係させなかったところに、『呪怨』の弱さを感じざるをえない。いやたしかに、一周回って奥菜恵の立場が反転するというオチはついている。しかし、それはまさに視点を変えただけであり、物語そのものを組み換えたり、その読み方の変更を促すようなたぐいの反転にはなっていないのだ。(『呪怨2』は未見なのだけど、同じ方法論でつくられたのであれば、ちょっと期待しにくい。)
──と、前置きが長くなったけど、先日見た新作『稀人(まれびと)』には、なかなか興味深い路線変更があった。テレビや監視カメラ、ケータイ、ファインダーなどを通した映像が多用され、また、日常/異界、地上/地下、意識/無意識などの図式、主人公であり語り手でもある塚本晋也の執拗なモノローグなど、『呪怨』ではかすりもしなかったテーマや手法が意欲的に導入されている。一言でいえば『呪怨』とは異なるタイプの実験作となっているのだ。つづきは後日。
(『稀人(まれびと)』は10月上旬ユーロスペースにて公開)