三谷幸喜映画の「面白さ」

三谷幸喜という人はとても優秀で、日本において、指折りの脚本家であり喜劇作家であることは、だれもが認めるところではないだろうか。僕は彼の仕事のすべてを追っているわけではないし、舞台はひとつも観ていないけど、映画やテレビの仕事はわりと注目している。脚本を担当した『12人の優しい日本人』、演出も手掛けた『ラヂオの時間』『みんなのいえ』は、ロマンチシズムを徹底的に排除し、ロジカルにドラマを構成している点が印象的だ。また、ときには「合い言葉は勇気」みたいな弛緩した連ドラを手掛けたこともあったようだけど、有名な「古畑任三郎」シリーズの質と量には素直に驚いてしまう。一定のクオリティを保ちつつ、あれだけのシナリオを量産しつづけることができるということ自体が信じられない(一人で書いているのだろうか?)。
当たり前といえば当たり前だけど、この人の仕事が気持ちいいのは、「なんとなく」という曖昧な決定がなく、キャラクターというものは劇作上、おしなべて合理的かつ外面的に動かされるべきであるという信念が細部にまで貫かれており、思わせぶり(に見えるよう)な表現が見られないところだろう。……重要なのは登場人物が「何を考えているか」ではなく「どのように行動しているか」である。それこそが観客が彼/彼女を知る手立てであり、物語の原動力となる。そして、そのアクションが別のアクションとどのように連鎖していくのかが問題となるのだ云々──という考え方は、劇作術におけるある種の基本であり、三谷はそれにきわめて忠実だ。三谷がつくるキャラクターはときに周囲を圧倒するほど喋りまくることがあるけれども、それは決して過剰な表現とはならず、必ず作品の一部にすっぽりと収まるような合理的なものとして機能している。三谷的世界は過不足なく歯車が連動する時計のように構築されるのだ。
同じように──そしてむしろこちらのほうが特徴的と思われるが──、三谷的世界には変人や悪人は登場するものの、理解しがたいもの、倫理的に許しがたいもの、不快でしかたがないものが介入することがほとんどない。変人や悪人は、変人や悪人そのものであることよりも、それらしく振る舞うこと──変人っぽさや悪人っぽさが要請される。つまり三谷的世界はここでも過剰さを退け、リアリズムから一線を引き、つねにどこか類型的であろうとしている*1
まあ、こういう「つくりもの」めいた作品世界が珍しいかといえば、そんなこともないだろうけど、これほど完成度の高いものを提出しつづけている人を、僕は寡聞にして知らない。そしてじつはここからが本題だけど、僕は三谷幸喜の技量に感服しつつも、ちょっと文句を云いたくなってしまうのだ。三谷映画はどこか物足りない。面白いのに物足りない。それをうまく説明すべきなのだけど、とりあえず簡単に言っておこう。三谷幸喜はおそらく、撮影という行為をあまり信じていない。三谷映画には思わず目を奪われるようなショットが存在せず、最初から最後まで映画がもっているであろう力に不意に圧倒されるということがない。つまり、「よく出来ているなあ」と感心したり快感を覚えるものの、映画ならではの驚きに欠けるのだ。これはないものねだりだろうか? このような問題は、彼が好んで手掛けてきたジャンルが、結末が明快で作品世界全体を相対化するという遊びが容易な、バックステージものであることからも伺えるかもしれない。それについては新作『笑の大学』を観て考えてみたいと思う。

*1:数回しか見ていないけど「HR」なんかはまさにそんな感じだった。その点、「古畑」は犯罪をテーマにしているせいもあり、ある程度シリアスでリアリズム的な調子を帯びることがあるけれども、それでも最後には確実に、それらを世俗的な論理というか判りやすさに回収する傾向があるように思える。ただ、木村拓哉演じる大学の助手(だったかな?)は例外的な存在だった。ひたすらクールで利己的で、人を傷つけることに何も罪の意識を感じない──という若者像もある意味現代的で、キムタクが演じることでそれほど不快さを感じさせないものになっているのかもしれないけど──この青年は、例外的存在であるためか、古畑に頬を打たれてしまう。