岩井俊二『Love Letter』

『Love Letter』は韓国で大ヒットしたらしい。そのせいか、岩井俊二は韓国人のあいだでとても有名で、街を歩くと声をかけられるほどだという。また、少し前に観た『リリイ・シュシュのすべて』の強烈さが気になっていたので、今さらながら観てみた。

この映画は三角関係の物語。20代半ばと思しき渡辺博子が、3年前に死別した恋人藤井樹(ふじい いつき)の中学時代のすでに存在しない住所に戯れで手紙を送ったつもりが、間違って藤井の同級生である同姓同名の女(以下、女・藤井)に届くことから始まる文通を軸に展開する。
渡辺と女・藤井は中山美穂一人二役。二人はそれぞれ乗り越えるべき個人的な問題を抱えている。文通の積み重ねと並行して、それらは結果的に解決されたようだ。渡辺は女・藤井に中学時代の藤井についていろいろと聞き出しつつ、藤井の死を乗り越え、現在の恋人に向き合おうとする。一方、女・藤井は母親と祖父とともに父親の死を乗り越える。ただし二つの死について手紙で話し合われることはない。

手紙での話題は基本的に女・藤井が想起する藤井についての他愛もないエピソードに限られている。そこには、女・藤井=語り手、渡辺=聞き手という役割分担があり、この話したい/聞きたいという関係は最後までほとんど揺らぐことも壊れることもなく、藤井に関する話題が尽きることで、あっさりと終わってしまう。その一方、二人の女はそれぞれ、藤井について隠し事があった。渡辺は藤井の死を隠し、女・藤井は藤井を回想する過程で互いが好意を抱いていたことを発見したことを隠す。

ようするに二人は互いにあまり干渉せず(渡辺は女・藤井宅を訪問するが、結局本人に会わずに退散する)、それぞれの期待にそれなりに応えるだけで、文通それ自体が生活に影響を及ぼすことは少ないようだ。渡辺と女・藤井の各人生は藤井という接点をもつものの、交わることはない。ということは、『Love Letter』は結局、二人の女がそれぞれの生活を送りながら、すでに身近ではない一人の男についての思い出に心行くまで浸るだけの映画なのだろうか?

じつは、映画の中盤には、二人の女が街中ですれ違い、渡辺だけが一方的に、相手の顔を認識する(ように見える)場面がある。藤井を除く『Love Letter』の登場人物のなかで、渡辺だけは、二人が瓜二つという事実を知っている(ようだ)。また渡辺は女・藤井が自分と似ていることを恐れていた。そして嫉妬を覚えながら、それを隠して文通を続けたのは、単純に考えてやはり、藤井を忘れられず、藤井という男についてもっと知りたかったからなのだろう。

そもそも藤井自身は、二人の女が瓜二つであることをどのように考えていたのだろうか。藤井の内面が伺える場面はほとんどないが、どうやら彼は、図書貸出カードの裏に丁寧な似顔絵を描くほど、女・藤井の顔(あるいは女・藤井的な顔)を気に入っているようだ。実際、藤井は渡辺に一目惚れしている。こうした事実は渡辺にとって、苦々しいものであるはずだ。なぜなら、すでに新しい恋人がいるにも関わらず、自分は三年前に死別した元カレを未だ忘れられず、しかもその元カレはたんに女・藤井と似ているという理由で自分を選んでいたかもしれないからだ。渡辺はこの苦々しさをどのように乗り越えたのだろうか? 『Love Letter』はそれを明らかにしない。もちろん明らかにしなければならないということではない。単純に、僕には納得のいくオチを見出せなかったのだ。

二人は互いにあまり干渉しないと書いたけど、実際のところ、渡辺の心境の変化(マリッジ・ブルー?)はこの映画の見どころのひとつであり、少なくとも観客は渡辺に感情移入することを要求される。けれども渡辺は何を考えているのかよく分からない女だ。渡辺は女・藤井とは対照的に、終始内面的に見える。これは単純に、藤井についてあれこれ悩むわりに、渡辺が語る藤井のイメージがやけに貧弱であることから受ける印象でもある。事実、女・藤井の回想場面は具体的かつ印象的なものばかりなのに、渡辺と藤井との思い出は一度も映像化されず、時折ぽつりぽつりと語られるのみだ。

結局のところ、二人の女の相似性と対照性は間違いなく意図的なものだけれど、上で述べたように、渡辺の思考の不可解さが、その効果を曖昧にしているのではないだろうか。ただし、以上のような不満があるにもかかわらず、『リリイ・シュシュのすべて』に繋がるような、回想場面における中学校的なエピソードの数々や、中学生的なリアクションはとてもよく描けていると思った。岩井の演出はとくに“中学生っぽい”かわいらしさや嫌らしさをとらえるとき、冴えていると実感できる。