泣かせるお伽噺『ふたりにクギづけ』

ファレリー兄弟監督作品『メリーに首ったけ』は現代的な差別や病気ばかりを題材にした映画だった。笑いというオブラートに包まれ、印象が和らげられているものの、ストーカー、ゲイ、動物虐待、身体障害、発達障害フェティシズムなど、大衆的なメディアでは敬遠されがちなテーマばかりが扱われている。しかも下ネタが豊富。これは『ふたりの男とひとりの女』『愛しのローズマリー』など、その後の作品にも見られる傾向だ。
ふたりにクギづけ 特別編 [DVD]こうしたタブーを笑いに転ずる過激な演出で評価されるファレリー兄弟だが、『ふたりにクギづけ』(原題「Stuck on you」http://www.foxjapan.com/movies/stuckonyou/)は、これまでの作品とはいささか趣が異なっているように見える。この新作では結合双生児が主人公という画期的な設定が選ばれた。彼らは、観客のだれもが期待するように、自虐的な冗談を連発する。ただし彼らの精神はその身体的条件の「異常さ」に比べてとても健全であり、その言動は政治的に正しすぎるように見える。そして周囲にも、これまでの作品で重要な役割を果たしていた、気狂いじみた行動を示す人間が見あたらない。
共通するハンディキャップを抱える二人が、いかにそれを乗り越えるか、そして乗り越えることにどのような意味があるか──これがこの映画の大きなテーマとなっている。今回の作品はじつは差別や偏見、障害(とそれがもたらす困難)の条件からして、これまでの作品とはリアリティのレベルが異なるのではないだろうか。端的にいって、こんな結合双生児はリアリティに欠ける*1。ただし、もちろん「こんな話、ありえない」とか「こんな奴、いるわけがない」といった批判がつねに有効であるわけではなく、ようは観客が、物語を支える世界観を受け入れられるかどうかこそが、この手の映画にとって重要な問題なのだ。
その点、冒頭の場面は巧妙だ。二人は早朝、ランニングしつつ、一人の女をめぐって口論になり、不注意にも一方が看板に頭を思い切りぶつけてしまう。ベタな笑いではあるものの、この場面は彼らが私たちと同じように通俗的な存在であることを示し、感情移入を誘う。続いて二人の生活ぶりに焦点を当てた導入部が展開され、そして徐々にお伽噺のような世界が組み立てられていくのだ。いわば、ボブ(マット・デイモン)とウォルト(グレッグ・キニア)は魔法*2をかけられた王子様であり(あるいはそれぞれ小心者、勇者であり)、メイは無垢なお姫様であり、シェールは狡猾な女王であり、モーティ・ライリー(セイモア・カッセル)は(役立たずの)召使いなのだ。気だてのいいエイプリル(エヴァ・メンデス)はお姫様……というよりサポーターか?
ともあれ、ここで語られるのは、大きなハンデを抱えた主人公が、夢を実現すべく都を訪れ、いくつかの困難を乗り越え、成功と挫折を経験し、ついには帰郷し、小さいながらかけがえのない成功を手に入れるという紆余曲折である(彼らは始めから非現実的な条件が課せられ、その条件=「魔法」を解かれたために逆に大切なものを失いかけている)。『ふたりにクギづけ』は、主人公の特異な身体的条件とともに、このお伽噺的・普遍的な泣きの構造によって決定づけられている。最後のステージ・シーンと、エンド・クレジットに挿入されたスピーチは泣ける。

*1:まあ、先に述べたように、スポーツで大活躍したり、舞台演技を誉められたりといった「政治的に正しい」演出は、それが過度な分だけ、「ありえないよ(笑)」というツッコミを誘う皮肉にも見えるのだけど……。

*2:といっても魔女はいないのだが。