橋本治『ちゃんと話すための敬語の本』

以前、「3年B組金八先生」で金八が生徒たちに敬語を使うように説教する場面にふれ、「『年上を敬え』というメッセージも、突き詰めれば論理的に説明できるようなものではない」http://d.hatena.ne.jp/mnsn/20041107と書いた。「なぜ敬語を使わなければならないか」という問いを立てた金八は、たしか、「私とあなたは違うんです」と答えていた。同じ回では、「年上を敬わなければならない」というメッセージもそれなりに強調されていたので、いささか混乱してしまうのだけど、僕の記憶が正しければ、このときの金八の説得は、なかなか的確だったのではないか。

いまさらながら考え直してみたのは、橋本治の『ちゃんと話すための敬語の本』ちくまプリマー新書ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)を読んだからだ。ちゃんと敬語を話すための、ではない。ちゃんと話すための、だ。この本はとても説得力があった。導入部ではそもそも敬語がいかに古い言葉であるかが語られる。

「正しく使いすぎると時代劇になる。だから、いいかげんにテキトーに使え」というのが、現代の敬語なんです。「いいかげんであるほうが正しい」というのはとてもへんですが、でも現代の敬語はそういうもので、だからこそ、敬語はとてもむずかしいのです。

昔の日本は「えらい人」に敬語を使う社会であり、そのとき「『えらい人』が尊敬にあたいする人かどうか」は別問題だった。ところが、それは「いつのまにか、『えらい人は尊敬しなければならない』に変わってしまった」。明治以降の日本は身分制度がほぼ消滅しているが、人をランクづけする考え方は残っている。尊敬の敬語、謙譲の敬語はランクづけを前提にした敬語だが、ランクづけがなくなってしまっている現代において、もっとも必要なのは、ランク差とは関係ない丁寧の敬語である。それはつまり上下関係ではなく、いわば横の「距離」を前提にして使われる言葉であるというわけだ。

人と人とのあいだには、「距離」があります。その「距離」は、埋まるかもしれないし、埋まらないかもしれません。でも、「距離がある」ということをはっきりさせないと、すべてはメチャクチャになってしまいます。「ある距離はある」──そのことをはっきりさせないと、埋まる「距離」だって埋まらないのです。どうか、自分の人生をメチャクチャにしないためにも、「丁寧の敬語を使う必要はある」と思ってください。

なんと丁寧な説得だろうか。ここでは「距離」を見誤ると不利益を被り、さらには思いがけない危険に晒されるかもしれないとも注意が呼びかけられている。尊敬しているからではなく、距離があるから(「私とあなたは違う」から)、敬語を使うべきなのだ*1

また、関西弁の「自分」が二人称である理由、「あなた」「きみ」「おまえ」という二人称の成立過程の分析、タメ口で話すということは一方的に威張るということであり、タメ口は「ひとりごとの言葉」でもあるという指摘などなど、とても分かりやすく興味深い*2。この本の対象は「十代はじめ」なのだそうだけど、敬語の使用に疑問や不安を抱いている大人にとっても、充分読み応えがあるだろう。

*1:実際、唯物論的にも、人は尊敬するから敬語を使うのではなく、敬語を使うから尊敬しているように見えるといえるだろう。ただし、あえていえば、そのような視点から敬語を使う必要を説くのは、やはり道徳的というより功利的だ。

*2:片岡義男の『日本語の外へ』(角川文庫)も同じような問題を、英語と比較しながら平易に語った良書だった。