クリント・イーストウッドと『ミリオンダラー・ベイビー』

小林信彦は『週刊文春』で、クリント・イーストウッドが70歳を超えてなお売り込みをしなければならないとぼやくエピソードを紹介していた。イーストウッドは『ミリオンダラー・ベイビー』製作のため、当初「ワーナー・ブラザースに企画を持ち込むが、“いまどき、ボクシング映画は当たらない”という理由で却下され」たという*1。ただし、資金繰りに手間取ったものの、撮影はいつものように速やかに行われ、予定を早め、昨年公開されることになったらしい。
また、同じコラムではたしか、イーストウッドはなかなか認められなかったけど、『許されざる者』にオスカーをやらないのはさすがにマズイということで受賞の運びとなったとも説明されていた。実力は認められつつも、あまり評価に結びついていないと噂される作家はどこの世界にもいるものだけど、アメリカ、そしてアメリカ映画におけるイーストウッドの位置というのも、いまいちよく分からない。日本はといえば、蓮實重彦は「ホークスやヒッチコックを発見したのがフランス人であるように、イーストウッドを発見したのは日本人なのだ」とことあるごとに力説していた。おそらくそのとおりなのだろう。ただし一般的には、イーストウッドといえば未だにダーティハリーであり、その意味では発見されたとはとてもいえないのではないか。あまり一般論を語ってもしょうがないけど、『ミリオンダラー・ベイビー』にしてもアカデミー賞4部門受賞という触れ込みがなければ、単館ロードショーでひっそりと終わった可能性もある。
さて、『ミリオンダラー・ベイビー』というタイトルはちょっとした引っかけで、作品のテーマを直接的に表しているとは言いがたい。スポ根映画のつもりで観ていると、愕然としてしまう。アメリカ本国でも、決して手放しで評価されているわけではない。もちろん問題は終盤の展開。宗教右派や一部の(?)人権派リベラルから反感を買っているし、構成に問題があると指摘されることもあるようだ。
まず、前者についていえば、イーストウッドはもともとそういう男であり、そういう男を演じてきたのだから、今更という気がしないでもない。イーストウッドリバータリアンを自認し、それを公言している*2。そのリバータリアン的視点は、ヒロインの家族を描くときにもっとも鮮明になる。また、イーストウッド演じる老トレーナーの最後の選択も、彼のこれまでの映画の延長線上にあると考えれば、ひとまず肯けるものだ。
だから、むしろ注目すべきは、前者のような論争的な問題それ自体ではなく──扱われているのは特別に新しい問題というわけでもない──、それに焦点を当てることを可能にした的確な演出の積み重ねにあるのだ──というとあまりに映画好きの見方に偏りすぎだろうか? 少なくともこの映画がショッキングな印象を残すのは、疑似親子関係が築かれていく過程が簡潔かつ丁寧に描かれているからこそだし、またそこにさらに、ショッキングということと一見矛盾するようだけど、すべてを客観的に眺める元ボクサーの老人の視点が組み込まれているからこそではないか。いずれにしても、「構成に問題がある」とはいっても、それは決して「失敗」という意味ではなく、むしろ「大胆」という意味においてであるというべきだろう。イーストウッド(とスタッフ)は、とてもさりげなく個々の場面を撮りあげ、物語を成立させてしまっているのだけど……。ミリオンダラー・ベイビー 3-Disc アワード・エディション [DVD]