『ジョゼと虎と魚たち』

ジョゼと虎と魚たち(通常版) [DVD]近所のそれほど大きくもないレンタルビデオ店では、すでに新作扱いではなく、4本もあるというのに、『ジョゼと虎と魚たち』のDVDは、最近までいつも貸し出し中だった。犬童一心監督によるこの映画は、恒夫(妻夫木聡)とジョゼ(池脇千鶴)の出会いと別れを描いている。
恒夫は普通の大学生。セフレに唆され、新しい彼女を難なくつくれるような男であり、また、怪我でラグビーをやめなければならなかったことについて、「好きだったんでしょ? 辛くなかった?」と訊かれ、「大したことでもなかったかな。ヘトヘトになるから、考えてもムダなことは考えない」と答えるような男だ。一方、ジョゼは祖母(「おバア」と呼ばれる)と川沿いの粗末な家で二人暮らし。おそらく年金に生活を頼っている。おバアは足の不自由なジョゼを「壊れもん」と呼び、人前に出さないようにしている*1
恒夫とジョゼの接近は、段階を踏むように淡々と描かれる。二人は途中、おバアの宣告によって引き離されるが、その後、恒夫はおバアが亡くなったことを知り、心配してジョゼの家に駆けつける。そのとき、諍いを引き起こし、抱くように誘ったのはジョゼの方だ。戸惑う恒夫は「俺はエロオヤジと違うし……」といったんは躊躇するが、「どう違うの?」という問いに対する答えは省略され、ベッドシーンに繋げられる。二人はようやく結ばれるわけだが、もちろん、恒夫は、親切の代償を要求するような「エロオヤジ」として、ジョゼと付き合うわけではない。とはいえ、恒夫にとっては多少の同情や憐憫から、ジョゼにとっては依存から、始まった付き合いと考えるのは間違いではないだろう。
ところで、そもそもジョゼは、恒夫との関係がいつまでも続くと考えていたのだろうか。物語の前半、ジョゼが愛読するサガンの小説内の人物は、恋の終わりについて語っている。また、付き合う前のジョゼは恒夫の彼女に嫉妬するが、同棲生活が一年経つと、結婚なんてありえないと幼なじみに語るほど、どこか達観している。
一方、恒夫は実家を目的地とする旅行をきっかけに、「ヘトヘトになる」まで悩んだことが窺える。ジョゼと別れたのは「僕が逃げた」ということだと恒夫はナレーションで告白し、別れた直後、ヨリを戻した彼女と歩きながら、堪えきれず泣き崩れてしまう。では、恒夫はいったい、何から逃げ、何に泣いたのか? その点、駐車場で恒夫がジョゼを背負う場面は示唆的ではある。ジョゼは恒夫が自分を背負い続けることは「できない」ということを暗に伝えようとし、恒夫もそれに考えを及ばせたようだ。ここで、二人のあいだには、何らかの合意が成立している。だからこそ、二人は予定を変更し、恒夫の実家ではなく海へ向かい、逃避する。そしてその後の展開は、「それでも数ヶ月は付き合った」という説明が妙に説得力があるが、ほぼオートマティックなもので、「別れの理由」に焦点が当てられることはない。
「理由」を推測すれば、「(1)恒夫は身体障害者と付き合うことの難しさを実感し、それを否定しようとしつつ、絶望していたのだろうか」とか、あるいは「(2)ジョゼは恒夫に過度の期待を抱かないほど、すでに精神的に自立していたのだろうか」とか、それとも「(3)あまりに当たり前だけど、二人はたんに男女として付き合い続けることに絶望せざるをえない何かを抱えていたのだろうか」などの疑問が浮かぶ。(1)が比較的有力に見えるかもしれないが決定的ではなく、他の理由と複合的なのだろう*2。もとより本人たちにさえ分からない可能性もある。
いずれにしても、この映画は、そのような疑問には積極的には応えず、考えてもキリがないようにできている。逆にいえば、恒夫の喪失感がやけにリアルなものとして迫ってくるのは、そのように抑制された描写だからこそだ。また、少なくとも娯楽映画として成立しているのはやはり、最後に泣き崩れるのが恒夫であり、別れを促すのがジョゼという最大公約数的に納得しやすい役割分担と、立場の逆転があるからなのだろう。*3

*1:ジョゼは話し相手がもっぱら、おバアだけのためか、老人くさい、もっさりとした奇妙な関西弁で喋る。一言でいえば、けったいだけど愛敬のあるキャラクターだ。僕には「そういえばNHKの連ドラに出てたなあ」くらいの認識しかなかったのだけど、ジョゼというキャラをつくりあげた池脇には驚かされた。ちなみにDVDではコメンタリーも聴けて、これがかなり面白い。池脇の喋り方は意外に幼い。一方、妻夫木は観察力の優れた頭の回転の速い役者であることが窺える。

*2:だから、たとえばhttp://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20041022/p1ではこの「理由」が明快に図式化されているのだけど、明快すぎるという違和感も覚える。とはいえ「ジョゼは世界に希望が存在することを知り、恒夫は他者性を知り、香苗は自己愛に満ちた自尊心を失うことで社会化されている。この作品を観たあとに、とても清々しさを感じるのは、このような三者のちょっとした成長がある」からという最後のまとめはこの映画の良さを的確に捉えていると思う。

*3:ちなみに冒頭の恒夫のナレーションは、ジョゼとの想い出を過去形で語っているために、いきなり、悲しい結末を強く意識させる。こういうあからさまな構造は、『号泣する準備はできていた』ではないけど、大きく見れば、この映画も昨今世に蔓延る感動したがり症候群の一事例であることを示しているのかもしれない。ともあれ、よくある恋のひとつであるかのように大げさに語られることがないところは、好感を持たれる要因となっているだろう。