森達也の仕事

「特集上映:森達也TVWORKSドキュメンタリー」UPLINK FACTORYで開催された。
森達也は『A』『A2』という地下鉄サリン事件以降のオウム真理教信者を追ったドキュメンタリーで有名なわけだけど、今回のように、一ディレクターとしてテレビ番組のために制作した作品が特集上映される機会はほとんどなかった。『A』『A2』をきっかけに、彼の著作を手にしたり、過去の仕事を知りたいと思っていた人は少なくないはず。
上映作品のひとつ「職業欄はエスパー」は、一方では、1時間番組(実質約45分)ということもあって、制作記である著作と比べると、情報の密度やテーマの掘り下げ方において物足りなさも覚えたものの、他方では、さすがにビデオならではの生々しさが感じられた。メディアが異なると比較は容易ではないけど、このような傾向は、『A』『A2』とその制作記の関係にも共通している。
森の仕事をあえて図式化すると、映像は直感的、文章は理知的。撮るということは主観的で、書くということは反省的になされやすいと考えれば、この違いは、当然といえば当然ではあるが、その違いがストレートにでるのは、ドキュメンタリー作家たるゆえんなのか。
森は撮影において、対象にどこか魅了され、感情移入すると同時に、それを斥けようという相反する立場をつねにとろうとする。愚直とさえいえるくらい正直に、誠実に、両者のあいだで、逡巡しつつ揺れ動く。それはドキュメンタリー作家としては客観性に欠けた態度なのかもしれない。けれども、そのような客観性をも不断に疑うことにおいて、彼の仕事は成立している。
たとえば「ミゼットプロレス伝説〜小さな巨人たち〜」。ここで森氏は、企画とプロデュースのみを担当している。だから、というべきなのか──今回の特集上映では以上の2本しか見ていないこともあって、それが理由とは言い切れないけど──、この作品は対象を丁寧に捉えた、とても良質のドキュメンタリーではあるのだけど、一方では、どうもお行儀よくまとまってしまった感も否めない。言い換えれば、少なくとも、こうした「模範的な」作品と比べたとき、森自身がカメラを担ぎ、揺れ動く「職業欄はエスパー」が、いかに異様なドキュメンタリーであるかが分かるのではないだろうか。
その点、日本の代表的ダウザー堤裕司の「能力」をテストする場面は印象的だ。テストの結果は、2/3の確率で正解。なかなかの数字ではあるものの、決定的とまではいえない。ともあれ、堤は、おそらく短いとはいえない撮影期間をともにしている森が、自分の「能力」を信じていることを前提に、話を続けようとする。ところがその瞬間、あろうことか、森は思わず、「いや、信じてませんよ」と即座に切り返してしまうのだ。この台詞は黒画面に白抜きの文字で挿入される。一瞬のち、堤はやや失望した表情で視線を落とし、森はその一言が本心ではないとすぐにフォローする。しかしもちろん「手遅れ」だ。この文字の挿入とこの「遅れ」はやけにリアルで、僕も思わず、呆気にとられ、すぐに笑ってしまった*1
「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)職業欄はエスパー (角川文庫)『A』『A2』にも、このように客観的であろうとしながら、客観的でありつづけることができないことを示す場面が登場し、ときにユーモラスでもあるのだけど、重要なのは、それらが徹底的にマジメな思考の果てに生まれ、記録されているということだろう。と同時に完成した作品からは、ドキュメンタリー作家として現実に向き合いながら、何かを消化しきれなかった徒労感というか諦めのようなものも感じられる。もちろんこれは原理的に避けられない事態でもある。
一方、森の著作においては、このように、いかに撮り、いかにそれらを組み立てるかを問いつづける試行錯誤のプロセスがなぞられている。それは、いつか諦めざるをえなくなるであろう、あるいは、いったんは諦めざるをえなかったその何かを、なお地道に見定めようという反復的な衝動によって支えられているように感じられるのだ。
森作品の信頼性とは、このような職業倫理(当然ではあるけれど)と身体的正直さから来ているのではないだろうか。*2
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*1:制作記にもたしか記述があったはずなのだけど。

*2:ところで、今回上映された「放送禁止歌」では、件の曲「手紙」の3番が流れなかったらしい。この件について上のリンク先のコメント欄に森達也自身がコメントを寄せている。流通経路がよく分からないのだけど、監督の知らないところで作品が改変されていたヴァージョンがあるということなのだろうか。結局最終上映では本来のヴァージョンが上映されたとか。

*3:適当に書いてしまったので追記。上のテストは、伏せてある三つのコップから、丸めた紙を隠しているコップを当てるというもの。このときは三回やって、二回正解だった。