『ある朝スウプは』

もはや別れることは容易ではなく、互いに必要としているのに、同棲生活において、なかなか歩調を合わせられなくなる若いカップル。男はパニック障害、女は失業という不安を抱え、おそらくそれらを解消するものとして、男は「宗教」を導いてくる。けれども、それはむしろ、ふたりのズレを顕在化させるものだった。
『ある朝スウプは』において、宗教という題材は決定的だ。もしかすると、それはもっと日常的なものに置き換えられるのかもしれない。けれど、そのときこの映画は、この緊張感を失い、まったく別の映画になっただろう。「宗教でなくてもかまわないかもしれないが、宗教でなければならない」というこの理屈の奇妙さは、たぶん私たち自身が宗教に感じる奇妙さから来ている。
ともあれ、少なくともこの映画においては、宗教はたんに非日常的なものではなく、同時にあくまで日常的なものだ。女は、思いがけず日常と連続していたそれを、認めたくはないがゆえに、おそらく「宗教」と便宜的に括弧をつけて呼んでいる。「宗教」は実際、男が身に着けるスニーカーや洋服を兆しに、ソファや数珠など、黄色い物体となって、生活に侵入してくる。それらに嫌悪感を露わにする女は、次第に男の行動そのものを制限しようと試み、男も女に理解を求める。
けれども、ふたりの理屈は噛み合わず、妥協点はなかなか見つからない。事態がいったん落ち着き、小康状態となり、たとえ笑いが起きたとしても、それによって、問題は決して解消されたわけではなく、かえって緊張が保たれていることが明らかになるだろう。
こうした息苦しくなるようなサスペンスの持続が、この映画の真骨頂だ。どこにでもあるようなアパートの一室を主な舞台とした物語は、半年余りの出来事を一つひとつ積み重ね、始まりと同様、静かでありながら、決定的な結末を導いている。『ある朝スウプは』には「100%純愛映画」というコピーがつけられているのだけど、これは同時代的な不安を背景とした、密室的生活における男女、というか、ふたりの個人による戦いの記録ともいえるのではないだろうか。
*『ある朝スウプは』は7月30日よりユーロスペースにてレイトショー(http://www.pia.co.jp/pff/soup/