『スティーヴィ』とあるドキュメンタリー

山形国際ドキュメンタリー映画祭2003にて公開された『スティーヴィ』という作品が、森達也の『ドキュメンタリーは嘘をつく』で紹介されていた。以下、要約・引用する。
ドキュメンタリーは嘘をつくじつの親に虐待され、見捨てられ、施設に預けられた11歳の少年スティーヴィは、施設の所長夫妻、そしてこのドキュメンタリーの作者であるスティーヴに出会い、穏やかな生活を取り戻す。その10年後、スティーヴは暴行などの犯罪を繰り返していたスティーヴィと再会し、映画制作を思いつく。スティーヴィの荒んだ過去が徐々に明らかになる。撮影中、スティーヴィは幼い従兄弟へのレイプ疑惑で逮捕される。映画の後半は、主にスティーヴィが収監されるまでの日々が描かれ、親しい人間に見せるその表情はとくに印象的なようだ。

知的障害を持つ恋人トーニャと語らうときや、監督であるスティーヴと湖面に釣り糸を垂らすときのスティーヴィの表情は、まるで別人のように穏やかで優しい。極めつきは、かつて実の両親のように慕った施設所長夫妻との再会のシーンだ。二人の前で子供のように羞恥し、そして甘えるスティーヴィは、前科を重ね、幼い少女をレイプしようとしたならず者と同一人物なのだ。(p241-242)

この文章が書かれた時点で日本公開は未定だったようだけど、スティーヴィ通信によると、今年公開されることが決まったらしいです。
ところで今回、森達也の文章を読んで、以前民放地上波で放送されたドキュメンタリーを思い出した。たしか数年前、深夜に見た。もう一度見たいのだけど、生憎、タイトルや制作者、出演者の名前を憶えていない。その作品は、ドロップアウトして身寄りのない二人の少年と、彼らを引き取り、ともに暮らすことで社会常識を身に着けさせ、更正・復帰させようと試みる男とその娘二人の生活を追っていた。
男は一言でいえば、不良の面影を残した中年といったところだろうか。若いころいろいろ悪さをした反動で、慈善活動をしているという解釈が当たっているのかどうかはわからない。少なくともその行動は決して偽善的なものではなく、単純明快な理屈と態度で少年たちに正面からぶつかり、協調性と礼儀をたたき込んでいくという魅力的なキャラクターだった。
少年の一人は家庭内暴力で母親を苦しめていたらしいが、作品内では終始穏やかな表情で、すでに更生しつつあった。たしか、その少年が大学受験を控え、上京して一人暮らしすることを決意したときだ。男は少年と母親の何年かぶりの再会を提案した。一緒に暮らすのは時期尚早だが、再会はこのタイミングしかない。男は、機を逸することによって、母子のあいだにますます広がるであろう距離を案じたのだ。母子は男の立ち会いのもと、シティホテルで再会することになった。それにしても、なぜホテルなのか? その直前、少年は男から、自宅を知られるのが怖いと母親が話していると聞かされ、絶句してしまう。少年はすでに無闇に暴力をふるうような人間ではなくなっていたのだが、それでもやはり、母親にとってその暴力は過去の出来事ではないのだ。しかし、再会のとき、母親は息子を恐れつつも、その成長に涙ぐみ、少年は戸惑いつつも母親の肩を優しく抱くのだった。
一方、モザイクをかけられたもう一人の少年は見事なまでに対照的だった。赤の他人であるにもかかわらず、家族として受け入れられたことに感謝はしているようなのだが、漫画を読むばかりで、家事は手伝わず、約束は守れない。窃盗癖も治まらず、罪の意識があるならともかく、どうもそういう様子でもない。男はたびたび手をついて謝らせるが、その行為を理解しているのかどうかも怪しく、反発するならまだしも、ただ反応が鈍く、項垂れてばかりなのだ。このような少年を受け入れた、この父娘の寛容さと忍耐力には本当に感服してしまうのだけど、結局娘たち(まだ十代なのだ)の我慢が限界を超え、少年は施設に戻ることになった。このとき、見送る男の無念の表情が印象的だ。
この少年は施設での生活が長く、親について訊ねられても悪口しか出てこない。実際虐待されてきたのであればそれもしょうがないだろうし、また、親の愛さえあれば健全に育つとかいうと、これまた乱暴な話になってしまうけど、だれかに愛されるというのは重要な体験ではないかと、いまさらながら考えさせられた。少年はおそらく野良猫のように目の前に供された人の好意にありつき、空腹を満たしてきたのだろう。ただし、いずれは、ひとりで生きていく術を身に着けなければならないのだ。二人の少年の対比は鮮烈だが、それだけに残酷さが際だつ作品だった。