『宇宙戦争』とアメリカ人

宇宙戦争』を有楽町で見た。これはSFなのか、パニック映画なのか。家族愛を描いた映画にも見えるけど、家族愛をダシに物語が進められているようにも見える。そして原作を読んでないからかもしれないけど、最悪の事態を予感させながら、あれよあれよという間につけられたオチにはずっこけそうになった。映画館でずっこけるなんてのも久しぶりな気がする。でも、それも含めて悪い映画というわけではない。
しかし、どこが良いかというとこれまた微妙で、郊外の道路を疾走する車をまとわりつくように捉えるカメラワークとか、縷々と川を流れゆく死体(とそれを凝視してしまう少女)とか、車に襲いかかる暴徒とか、炎上しながら走る列車に寸断される群衆とか、印象的な場面は少なくないのに、それらが決定的ともいいにくく、結局、振り返ってみると、どこかつかみどころのない作品に思えてしまう。にもかかわらず、少なくとも娯楽映画として成立しているのかなあと納得させられてしまうのは、やはりスピルバーグの力なのだろうか?
たとえば、宇宙人の襲撃を地下室で耐える場面。これは『サイン』を連想させる。ただしここでは『サイン』や、あるいはさらにはっきりと密室的空間で外敵に襲われる話を骨格とした『鳥』『わらの犬』のような緊迫感が最優先されるわけではなく、どことなく間延びし、ユーモラスでさえある……。こういう語り口ももしかして巨匠の余裕がなせる業なのだろうか? 『激突』や『ジョーズ』と見比べたくなってしまった。

ところで、この場面とその前の場面は、物語の重要な分岐点であり、敵が出現したときのアメリカ人の行動様式を類型化して示しているようだった。課題のレポートにはろくに手をつけず、父親の車を勝手に乗り回し、また父親を尊敬していないグータラ息子が国のために戦いたいと軍隊に合流しようとしたり、当初威勢のいいことを言っていたマッチョな男(ティム・ロビンス)が、じつは恐怖と妄想に囚われていたりすることが明らかになる。対して、トム・クルーズ演じる父親は、家を飛び出すとき、隠していた銃を手にしていたが、あくまで家族愛を行動原理にしている。
ボウリング・フォー・コロンバイン』では銃を持つアメリカ人の心理を、外敵(他者)に侵略(復讐)されるかもしれないという恐怖心に由来していると分析していた。この作品はドキュメンタリー“なのに”面白いとか、あるいはドキュメンタリーとしての公正さが話題になっていたが、こうした分析についてはどうも暗黙の同意が得られているかのように話が進んでいた気がしないでもない*1
とはいえ、「9・11」以降のアメリカの動きを見ればそう判断するのもいたしかたないのかもしれないけど、アメリカ人が銃を手放したがらない心理をそう単純化できるのだろうか。銃規制がすなわち善であるというような風潮には違和感を覚える。この点、『宇宙戦争』は『ボウリング・フォー・コロンバイン』批判といえなくもないだろう。

*1:森達也もドキュメンタリーとしては評価できないといいつつも、分析については全面的に同意している。もちろん森は、ドキュメンタリーに報道と同様の公正さを求めてはならないという立場であり、『ボウリング・フォー・コロンバイン』が評価できないのは、その分析=メッセージの一方的な描かれ方にあるらしい。