絶望に効く(?)『失踪日記』

失踪日記被差別民や貧困層を描いたり、あるいは貧困そのものをテーマにした漫画は少なくないはずだけど、日本は一応は近代化され、たとえフリーターに甘んじたとしても、なんとか喰っていくには困らない時代を迎え、貧乏生活はバラエティ番組のネタになりこそすれ、あらためて漫画で描かれるべきものではないと考えられてはいなかっただろうか。
ところが吾妻ひでおは『失踪日記』で、貧乏生活どころか、職や家庭、つまり社会生活を放棄し、ホームレスになってしまった。ホームレスは社会的不安をかきたてる存在であり、できれば意識したくない存在かもしれないけど、序章では路上生活に至るプロセスが信じられないほど、あっさりと描かれ、自殺未遂というオチを冗談にしてしまっている。なにも好きこのんでホームレスになったわけではないはずなのに、どこかその生活を楽しんでいるように見えてしまうくらい──いや、実際多少は楽しんでいるようなのだけど──、この作品では万事がこの調子で、人はどれだけ悲惨な境遇におかれても、それを相対化できるのだという感動──少なくとも、できるはずだという希望を与えてくれる。
また、この漫画は奇を衒わず、淡々としたコマ割りなのに、何度も読み返したくなるようなセンスの良さを感じさせる。たとえば、とり・みきが指摘するように、ページをめくって現れるP50の雪景色は美しく*1、しかも下に続く五コマで、その美しさの余韻にひたることなく、煙草と酒とうんこと「ちめてー」で瞬く間にしめくくる展開はあざやかだ。「病棟4」では、十人ものアル中患者を緩急織り交ぜ次々と小気味よく紹介し、しかも最後のページでやはり畳みかけるようにしっかりと笑わせる。
こうした散文的な調子をベースにした『失踪日記』は、路上生活篇、肉体労働篇、アル中および強制入院篇という三部構成になっていて、いずれも作者の実体験に基づいているものの、細かくいえば、それぞれは違う印象を与える読み物でもある。入院篇は続編が出るらしいので楽しみだ。*2

*1:宮本常一『忘れられた日本人』所収「名倉談義」における百姓・鈴木和のエピソードを彷彿させる。

*2:さて、以下はまったくの余談というか、忘れないうちに言っておきたいトリビア的な話。精神病院を舞台にした話といえば、最近では『ブラックジャックによろしく』が有名だけど、新聞記者が殺人事件の真相を探るために狂人を装い入院する、サミュエル・フラー監督『ショック集団』(1963)はさらに衝撃的な作品だ。『バトルロワイヤル』のメイキング(プロモーション用の映像?)で、「映画は戦場だ!」というコピーが、まるで深作欣二の発言のように使われているけど、これはフラーが『気狂いピエロ』でジャン=ポール・ベルモンドに投げつけた台詞だ。 『絶望に効くクスリ』で、深作を「欣ちゃん」と呼び、深作映画の戦闘場面で肉体が飛び散るのは米軍による空襲体験に基づいていると語る、「金八」の脚本家小山内美江子は、すでに説教は有効ではないと「金八」的教育観を自己批判し、自身はなんと「ごくせん」のファンであることを明かしている。山田玲司のこのインタビュー漫画は、こういう貴重な証言が飛び出すことがあるので気になる。