『エレファント』再考

エレファント デラックス版 [DVD]『エレファント』を劇場で観たときはとにかく、すべてを圧倒的に美しく感じたのだけど、DVDだと、しかも、うちのAV環境だとそれも半減していた。DVDでは、あれを観たとはいえない。ただしこの映画の難点は、DVDだからこそ、よくわかるといえるかもしれない。実際、今回、低いクオリティで見直して、この映画は本当に空っぽだなあと実感できた。
以前にも書いたけど、『エレファント』は卓越したテクニックを駆使して、凄惨な事件が起きた環境とその現場を淡々と再現している。それ以上でもそれ以下でもない。『ボウリング・フォー・コロンバイン』の饒舌が馬鹿らしくなってしまうようなスマートさ。「空っぽ」というのは、そのようにして立ち上がる美しさのことだ。このような作品を目の当たりにしたとき、ひとは言葉を失い、ただその「美しさ」に浸りたくなってしまうだろう。と同時に、はたして、このような「美しさ」を積極的に認めていいのかという不安を抱くのではないだろうか。
ガス・ヴァン・サントがなぜ、あの事件を題材に選んだのかは分からない。けれども、結果的に、労せずして、あらゆるカットに死が潜在していることを意識させることに成功している。あるいはそもそも、そのように意識させること自体が目的だったのかもしれない。そして結末では、主人公を事件現場から遠ざけ、冷蔵庫で命乞いする美形カップルと主犯格の少年、それぞれが迎えるであろう運命から目を背けている。『エレファント』が広く受け入れられるのは、やはり、このような引き際と無関係ではないはずだ。
DVDに収録されたガス・ヴァン・サントの発言によると、警官隊が突入する場面も撮られたが、ありふれた映画になってしまうことを避けるために、結局使われなかったらしい。監督の意図は正しかったと思う一方、それによって生まれた空っぽな美しさは、ただ諸手を挙げて受け入れられるようなものではなく、一考に値する問題を孕んでいるものだとも思ってしまう。
「それ以上でもそれ以下でもない」状態は、作品のひとつの理想だろう。でも、作品には必ず過不足が生じるものだ。一見、何気なく撮られているように見える『エレファント』にも、当然のことながら、なんらかの作為が働いている。
作家は多少なりとも、ただ美しいものをつくりあげたいという欲望を抱くものなのかもしれない。ただし、作品は原理的に単独では成立せず、必ず背景、あるいは背景から自立させる理屈をともなうものだ。そのような原理を無視するのはたんなる反動か、よっぽどの確信がないとできないことだろう。僕には『エレファント』が例の事件に思いっきり依存しながら、依存してないように見せる狡猾な作品ではないかという疑念が拭えない。
誘う女 [DVD]ところで、少なくとも僕にしてみれば、このように思わず頭を抱えてしまうような作品をつくってしまったガス・ヴァン・サントだけど、これまではその名前さえ、ちゃんと認識していなかった。ユマ・サーマンの親指映画は、ついつい気になったので公開当時に観たけど、何をやりたいのかさっぱりわからなかった。ただ、最近『誘う女』は喰わず嫌いであったことがわかった。ニコール・キッドマンの妖しい(怪しい)魅力が全開のこの作品は、ジャケットや邦題で確実に損している。