アシュリーと五嶋龍

先週、フジテレビで「短い命を刻む少女〜アシュリー14年間の軌跡」(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/0925hegi/)というドキュメンタリーが放送された。「通常の8〜10倍の速度で老化する難病・プロジェリアに冒され」ている少女の生活を描いていた。まるで大友克洋の漫画の登場人物のようなので気になって見たのだけど、題材的にはともかく、技術的にはナレーションと音楽に頼りすぎていて、ドキュメンタリーとしてあまり良い出来とはいえなかった。もちろんナレーションと音楽を使うべきではないとはいわない。使わなければならない必然性をどのように考えているかが問題なのだ。この作品では、このような手法が、ある現実を提示するというより、ある見方に誘導してばかりいる。少なくとも僕には、万人に受け入れられやすいように加工されたメッセージを押しつけられている気分が最後まで拭えなかった。
一方、先日、第10回の放送で完結した「五嶋龍のオデッセイ」(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/goto-ryu/)は五嶋龍の10年間を追っている。この作品の面白さは、被写体が天才的少年ヴァイオリニストであること、舞台が海外、主にニューヨークであることにある。そして何より、音楽の才能に恵まれているという点を差し引いても、五嶋龍という少年が活き活きとしたとても魅力的なキャラクターということにある。
とはいえ、おそらくこれはなかなか難しい企画でもある。そもそも、五嶋龍はわずか7歳から撮影されているけど*1、撮影期間はあらかじめ17歳までと決めていたのだろうか。ふつうの人間なら、多感な時期にスタッフにつきまとわれることに耐えられなくなることもありそうだ。実際、シリーズ継続中は「今年も無事に放送されるのだろうか?」と他人事ながら心配だった。
けれど番組を見るかぎり、それは杞憂にすぎなかった。彼の父親は最終回で、じつは当初、番組制作による息子への影響というリスクを考えると、全面的に賛成というわけではなかったが、今はスタッフに感謝したい、とシリーズを総括していた。また、五嶋龍本人も、自分にとって日記のようなこのシリーズを卒業するのはちょっと寂しいと振り返っていた。
ドキュメンタリーは、いわば他人の人生を売るという鬼畜的行為によって成立している。また、そこにはつねに被写体との距離感が露骨に反映されるものだし、被写体との共犯関係を導いてしまう危険も潜んでいる。当たり前だけど、父親の発言には、ドキュメンタリーとは微妙なバランス感覚が要求される表現手段なのだと考えさせられる。その点「五嶋龍のオデッセイ」は、生活に密着しながら制作者と被写体が幸福な──幸福すぎるくらい幸福な──関係を築いた作品なのかもしれない。
それにしても高校生にして、あの落ち着き……。といっても、別にませているわけではなく、体裁を繕っているわけでもなく、のちに何百万人もが見るであろう画面を撮っているカメラに向かって、素直に裏表なく心情を吐露したりしていて──といっても真意など知りようもないけど、実際そう見えてしまうのだ──、このひとはよく出来たひとだなあと素朴に感心してしまう。演奏者というのは、たしかに見られることが仕事のようなものだけど、あのような落ち着いた物腰は生まれついてのものであると同時に、人前で表現する舞台に何度も立つことで、身につくものなのだろうか。

*1:僕は何度か見逃してしまっているためか、実際に撮影がスタートした時期ははっきりとは分からないのだけど、5歳当時のオーケストラと共演する映像が時折挿入されていた。