トニー・スコットの会心作(?)『マイ・ボディーガード』

リドリー・スコットは芸術家肌、弟トニー・スコットは大衆路線の監督。おそらく世間的にはこんな図式で考えられている。それはたぶん間違っていないし、僕もそんなふうに考えていた。だいたいトニー・スコットの映画は「ああ、あれってそうなの?」と監督していたことに、あとから気づくことが多い。逆にいえばこの監督の映画はビッグネームの役者が出演する大作である一方で、「トニー・スコット最新作!」のように宣伝されることは少ない。そんなわけで気づいたときには公開が終わっていたのだけど、脚本がブライアン・ヘルゲランドだし、やはり見逃すわけにはいかない。
元CIAの特殊部隊員が人生に絶望しながら、絶望しきれず、友人を頼って、メキシコにたどりつき、金持ちの娘のボディガードの職にありつくといった導入。そして男は娘によって生きる希望を見いだすが、娘が誘拐されることで、復讐の鬼と化すという展開。
……これだけ景気がよく、活きのいい映画を撮れたら楽しいだろうなあと思う。実際、DVDに収録されたコメンタリーで、スコットは上機嫌に制作秘話を披露しているように見える。還暦を迎え、もろもろの束縛から解放されたのか、あるいはようやく好きなように撮れる環境が整ったのか、いずれにしても羨ましいものだ。ただし、この作品を見ても、スコットが何をやりたいのかはいまいちよく分からない。いや正確には「こういうことをやりたいのか」と納得しつつも「でも、なんでそうなるかな」という驚きと疑問を覚えてしまうのだ。この「こういうこと」をスタッフその他と事前に共有するのは容易ではないのだろう。同じくコメンタリーによると、ヘルゲラントは脚本を書き上げたときに、自分で撮りたいとスコットに進言したらしいが、完成した作品を見てもヘルゲラント自身の思い入れがどこにあったのかは分かりにくく、その思い入れは結局スコットの「こういうこと」とまったくズレていたのかもしれない。
まず、そもそも主人公の中年男が絶望している理由が不明。どうやらテロ対策に従事することで心身ともに疲れ切り、酒に溺れるようにもなったようなのだけど、そうした背景は仄めかされるだけなのだ。このあたりの描写は「愛国的ではない」という圧力でもかかってカットされたのだろうか? 観客としては「とにかく彼は絶望しているのだ」と自分を納得させて見続けるしかない。また、「誘拐の黒幕がじつは……」というヘルゲラントならではの展開もあるのだけど、とくに驚くような真相が明かされることはない。というか、この真相は「オッサンと少女の愛、そして復讐」という作品全体のテーマとの絡みが弱いために、観客の積極的な関心にはなりえないのではないだろうか。つまり、だれが黒幕だろうと関係ないといえばいいすぎだけど、この作品では陰謀プロットが肝にはなりえないという違和感を覚えてしまうのだ。ちなみに小道具の使い方にしても、伏線の張り方にしても、ヘルゲラントものとしてはいまいちだ。期待しすぎていたのかもしれないが、きっとスコットにいいように料理されてしまったのだろうとも信じたくなる。
マイ・ボディガード 通常版 [DVD]実際、スコットはなんだか満足げに振り返っているのだけど、カットされたエピソードは少なくないようで、ヘルゲランドにしてみれば苦々しい思いを抱いているのではないだろうか。あるいは、このCM出身監督の年齢不相応に過激なスタイルに呆れつつ驚かされたのかもしれない。たしかに少なくとも、この映画の売り(魅力)は、「スタイリッシュな映像」というか、スコットのやりたい放題にあるわけで、とくに悪党どもを次々に締め上げていく後半の展開は爽快ではある*1
というわけで、スコットが脳内に描いていた何かは、まだよく分からないし、今後分かることがあるのかも分からないが、少なくとも監督自身がその「何か」をやりきったことに意味がある映画、といえそうだ……。

*1:とくにクラブのシーンがすごい。ここに限らず、この映画が『シティ・オブ・ゴッド』から受けた影響は少なくないはず。