『武士の一分』が見応えはあるのに、そんなにはよくない理由

『武士の一分』、五体満足でなくなったらどうしよう、とおそらくだれもが一度は考える問題を導入にしている間口が広い映画でした。
中年にさしかかろうとしている主人公の武士は、「毒味」という自分の役目をたいして誇りに思っていないし、転職さえ考えている。こういうキャラもそれなりに現代的で共感しやすい。
ところが、主人公はある日、このやり甲斐も感じていない仕事で事故に遭い、一命はとりとめるものの、失明・失職してしまう。それだけでも十分絶望的なのに──といっても、失明しても毒味くらいはできるはずなんだけど──、さらにその結果生じた出来事によって、(武士というより)男としてのプライドを失いそうになる。
この不運ともいえる「出来事」を一大事と考えられるか、考えられないかが、この映画の大きな分かれ目。幸いキムタクや檀れいが素晴らしいので、ますます物語に没頭してしまうわけです。
ただし物足りないのは、悪役が魅力的ではないところ。まったく印象に残らないし、ほんとんど斬られ役にすぎないというか、はっきりいえば、たんなる小悪党でしょう。
『武士の一分』の大筋は、ロートルが再起・復活、リベンジするという娯楽映画によくあるものですが、展開自体は意外性もダイナミズムも欠き、活劇とも復讐劇とも呼べない中途半端な代物になっている。といっても、それは期せずしてそうなってしまったというより、おそらく、話を大きくするのを意図的に避け、こじんまりした世界観を優先した結果なんですよね。だから、悪役を格上げしたら、この映画はこの映画でなくなってしまう。
そしてこの「世界観」は夫婦の関係に端的に現れているのではないか。実際、この武士は別に心理的には不倫してない(裏切ってない)妻を捨て、戻ってきたら戻ってきたで「よく戻ってきた」とばかりに泣いて受け入れる。これでは、そもそもどうして捨てたかといえば、たんにオノレのメンツのためだった、といわれてもしかたないのではないでしょうか。それはいいかえれば、たんなるワガママであり、「武士の一分」とはいうものの、この映画が誘う涙はほとんどナルシシズムによるものではないかと思わざるをえないんですよ。まあ、泣きましたけどね……。