落書きとホームレス その3

最近の話題を少しだけ意識しつつ、『ネットカフェ難民』を読んでみた。

ほら、いたでしょう? ヒッピーとか、フーテンとか、いつの時代にも、家を捨て、街を浮遊して生きる若者たちが。ネットカフェ難民の少なからずは、その系譜に属する若者なのかもしれない。/しかも、豊かさの中で育った彼らは、社会の最底辺に身を置くことでしか、リアルな現実を体験するすべがない。無意識のうちに生きる技術を欲し、自立の修行をしているように見える。
http://book.asahi.com/review/TKY200712040261.html

この書評を先に読んだときは、やむを得ずネカフェ難民化する人間がいる現状や、本書自体の企画性を軽視しているようで、少々呆れてしまった。そもそもヒッピーやフーテンとは時代背景が違う。が、実際、読んでみると、「豊かさの中で育った彼らは、」以下の解釈は、あながち間違っていないように思えた。というか実際、本書はそのように読めるように書かれている。
著者は「難民生活」をあえて選択したように見えるし、本書ではかなりの部分がネカフェ難民としての心得のようなものに割かれているのだから、たしかに貧困についてのドキュメントというより、ある種の「修行」のように見えなくもないのだ。
一方、著者は冒頭、元芸大生ならではの視点で(?)、「本当の格差とは、文化にこそ現れている」と語った後、ほぼ唐突にネカフェ難民生活に身を投じている。これはなんだか期待させるわけだけど、結局その繋がりはどうも最後まではっきりしない。企画として、巧いのか、狡いのか、あるいはたんに中途半端なのか、よく判らない。
いずれにしても、著者自身は貧困とネカフェ難民を短絡的に結びつけることに抵抗があるようだし、実際、本書の目的が貧困問題の解決にあるかといえば、そんなことはないだろう。むしろ貧しさとは何なのかについて再考を促すような内容にはなっている。また、少なくとも、言い方はよくないけど、ネカフェ難民的底辺生活者気分を手軽に味わえるわけだから、貧困を忌み嫌い、貧困問題には正面から向き合わずにすめばそれに越したことはないと考えるような人にとっては、本書は、ある意味、かっこうの読み物になっているわけだ。
ただ、そうはいっても見方を変えれば、目標などはとくになく、生産をとくに尊ばないようなことを言いつつ、著者自身はこういう商品を生産していること、「最底辺生活」に身を投じるために、もの言わぬ他者、「ただ生きる」他者に衝き動かされるという、いかにも文学的な仕掛けを必要としているということには、微妙な違和感を覚えてしまう。同じく底辺生活者を描いた読み物や文学といえる『闇金ウシジマくん』や古谷実作品と比べたいところですね。
ちなみに意図的なのか、無関心なのか、本書では季節についてほとんど言及されることがない。一度蚊について、そして2007年の参院選らしき選挙について語る場面があるので、夏であることがかろうじて判るくらいだ。

ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)

ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)