「竹熊漫談」から漫画の未来を想像する

竹熊健太郎の『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』(イースト・プレスISBN:4872574206)は業界論、作品論、作家論、そしてあの『サルまん』の制作秘話の四部構成になっている。タイトルからして一種の暴露本と思われるかもしれないが、原稿料についての記述は限られている。三十年近く(?)原稿料を据え置きにせざるをえない理由を歴史的に検証する手順は簡潔で明快だ。
この論考のきっかけは、著者によると、ロジックだけが信用される2ちゃんねるでの論争だとか。それは「何々先生はページ20万円だ」「いや、それはありえない」云々という対立から始まったらしいが、原稿料問題がここまで徹底して追及されるのは、構造的に圧迫され、厳しい戦いを強いられる多くの漫画家のモチベーションを危惧してのことなのだろう。
読者からすれば「面白いものが読めさえすればいい」という立場もおおいにありうる。というか、ほとんどの読者がそうかもしれないが、本書は絶えず生産・提供されるその「面白さ」があらかじめ構造的に(貧しく)決定されている可能性も示唆しているのではないか。そこで、作品の多様性(豊かさ)をいかに確保するかという問題が生じるわけだが、それは当然、たんに漫画家保護だけを目的にしたものではない。
著者は時代に応じて業態も変化すべきだと考え、週刊誌では制作を分業化して作家の負担を軽減させ、月刊誌では作家性の強い(書き下ろし)作品を自由に描いてもらおうという「棲み分け」案を問う。すなわち流通媒体の性格と作品制作システムのそれぞれの多様性の確保。このような結論が、いささか理想論に響きかねないにもかかわらず、一定の説得力をもつのは、具体的な考証が業界の問題の切迫さを浮き彫りにしているからだろう*1
ところで、本書で何度か展開されるマンガ原作論は、以上の「打開策」を念頭においた実践的な考察であると同時に、理想的な原作のありかたを純粋に求める知的好奇心に支えられたものになっている。
個人的にとても気になったのは、ハリウッドのコメディにならったという赤塚不二夫のギャグ生産システムだ。よく知られるように、『天才バカボン』の破天荒なギャグの数々は、ひとりの漫画家の頭脳のみから弾き出されたわけではない。ギャグを担当する人間が集められ、赤塚はそこから生まれるアイデアを「監督」していたのだ。ただし、そのプロセスの詳細は不明である。そこで著者はそのシステムを公開してほしいと赤塚に呼び掛けるのだが、それははたして本当にシステム化されていたのだろうか?*2

*1:ただし、本書ではあまり触れられてなかったと思うが、近年の週刊誌には隔週連載や計画的長期休載といった以前は見られなかった連載形態が採用されている。連載という概念はユルくなっているのだろう。少なくともたとえば黄金時代の『少年ジャンプ』では、人気作品が毎週欠かさず読めるのはごく当たり前のことではなかっただろうか。それはテレビの人気番組が毎週放送されるのと変わらないくらい「当然」のことだったはずだ。

*2:たとえば本書で赤裸々に告白されている『サルまん』制作秘話を見てみよう。その作業は毎回、著者がお題に応じてアイデアを怒濤のように吐き出すことから始まり、それを相原コージがまとめていく──大雑把にいうとそういう流れになっていたらしいのだが、そのような手続きは容易に一般化しうるものではなく、この場合のそれは二人の個性がたまたまうまく噛みあった希有な例というべきではないか。ようするに合作というのは、このように、すべて特殊な方法論(その場しのぎ)によって成立しているのであり、赤塚のシステムも例外ではないように思えるのだ。また、たしかに、それぞれの方法が、破壊的ギャグ漫画『天才バカボン』とメタ漫画『サルまん』の違いになっているといえるだろうし、前者の「安定感」はシステマティックなつくりかたから来ているような気もするのではあるが、かりにそうだとしても、それははたしてリサイクル可能な方法論なのだろうかという疑問が残る。ともあれ、今後有効な分業形態のひとつとして一考に値するものではあるはずだ、と信じてみたい。