「タイガー&ドラゴン」と清水ミチコ

タイガー&ドラゴン」を途中から見て、最近ようやく見終えた。宮藤官九郎の脚本としては「池袋ウエストゲートパーク」「木更津キャッツアイ」に特徴的な土着性や同時代性が脱色されている。その良し悪しはともかく、少なくとも、猥雑さが省かれた分、古典落語と現代劇を重ねるという技巧的な話法ながら、分かりやすい作品だった。
ただ、人情話とはいえ、最後、師匠と弟子が抱き合って泣くほどの関係だったというのはどうだろう……。正直、泣けるというより戸惑ってしまう。宮藤作品はこういう疑似ホモ関係において『行け!稲中卓球部』を連想させるところがある*1。また、悪ガキたちがじゃれあうのはたしかに楽しいのだけど、反面、女性陣の役割がお粗末であることは否めない。
その典型である伊東美咲は、一応ヒロインとはいえ、あんなおバカな役をやらされて我慢できるのだろうか。いや、伊東自身がどう思っているかというより、我慢できないひとりはようするに僕なのだけど、それはともかく、彼女が演じるメグミは徹底的に表面的で、まるで内面を感じさせないところは、ちょっと恐いくらいなのだ。それでもシリーズ終盤になると、メグミはどういうわけか、それまでとは異なり、恋人の竜二(岡田准一)に、ひとりの人間として扱うことを要求するような言動を見せるようになる。唐突な変化についていけない竜二は「メグミちゃん、そんなキャラじゃないじゃん……」と半ばメタフィクション的に泣きを入れる。が、それに対するメグミの応答がまたすごかった。
「“キャラ”とかいうけど、メグミはアニメや漫画じゃないもん! 人間だもの!」
メグミはその場を駆け去り、竜二は小さくなるメグミの背中を目で追いつつ「『人間だもの』って……」と絶句する。深読みすればキリがないけど、もしかしてここは「タイガー&ドラゴン」的(『稲中』的?)世界から脱出しようと試みるメグミの意思を感じとるべきだったのかもしれない。しかしながら、結局、次の最終回、メグミは何事もなかったかのように、いつものメグミなのだった……。
ところが、総じて女が描けていないとはいえ、例外もあった。「タイガー&ドラゴン」はキャスティングもなにかと話題なのだけど、第5回「厩火事」はとくに秀逸で、夫婦漫才コンビ「上方まるおまりも」に古田新太清水ミチコを当てるという配役は絶妙だろう。ここでは「タイガー&ドラゴン」+「厩火事」+「漫才の舞台」という三重構造において、中年芸人の悲哀とともに、不可能であるはずの愛の伝達を逆説的に成功させる場面を描ききるという離れ業が演じられている。誉めすぎだろうか?(^ ^;
まあ、以上は宮藤官九郎の手柄であると同時に、元ネタと、ふたりの役者に負うところが大きい。とくに清水ミチコの良さがここまで引き出されたのは、おそらく、かつてないほどで、なによりもあの微妙な疲労感と崩壊感と哀愁をたたえた顔面がドラマ空間で活かされている点が素晴らしい。「夢で逢えたら」出演当時の胡散臭さを保ちつつ歳を重ねている清水が、今後、どんな顔のおバアちゃんになっていくのかが気になるところだ。このドラマにおける清水の登場は遺影で締めくくられている。それは女芸人・清水への大いなるオマージュにも思えるのだった。*2

*1:そういえば「木更津…」で「死ね死ね団」が登場したけど、あの元ネタは『稲中』? それとももっと古いのだろうか?

*2:ところで、清水ミチコは最近、鶴瓶の「朝まで歌つるべ」や「虎の門」で、物真似と顔芸が混在した妙な弾き語りを披露していた。もっと見たい。