『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』

アウトサイダー・アートを、アウトサイダー・アートだから好き、といってしまうのは、間違いというか、つまらないことなのだろうけど、ニキフォルのようなアウトサイダーの作品は、どこか理性が飛んでいるように見えるという意味で、なんだか気になってしまう。「これを描いた人はもしかして……」と思わせる作品の作者が、実際にアウトサイダーであることは珍しくない。ということは、やはり「彼ら」は、我々とは違う理屈で動いているということなのだろうか。
アウトサイダーによるものであろうとなかろうと、作品はつねに固有のルールを持ち、固有のルールを持っているからこそ作品と呼ばれるものだ。とはいえ、明示されているわけでもないのに「明らかに何かが違う」という印象をもってしまうのは、いったいどういうことなのか。
『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』にはそんな疑問に応える何かがあるのではないかと期待していた。ニキフォルは具体的にどんな発想・手法・理屈で描いているのか。が、ニキフォルはほとんど語らず、制作風景の場面は説明的なものにとどまっていた。作品もあまり映らない。
映画『ニキフォル』がニキフォルの絵画にまともに向き合うのは、(たしか)エンドクレジット直前のみ。しかも正面からカタログのように映すだけで、なにかを積極的に表現しているわけでない。これではやはり物足りない。もちろんプロデューサーや監督としては、映画化しているくらいだから、否定的に評価しているわけではないのだろうけど、少なくとも、この映画を見るかぎり、この映画がニキフォルの絵画をどのように評価しているのかは判らない。
逆に、作品ではなく人生を描くことに専念するという、この映画の「割り切り」は潔いといえば潔い。この「割り切り」は、ニキフォルと、ニキフォルにアトリエを占領されたうえに、作品を罵倒される売れない画家との関係の判りやすさにも通じるものだ。というか、映画『ニキフォル』は、ニキフォルの人生というより、ニキフォルと売れない画家との師弟関係を軸にしている。そこに投影されているのは、芸術vs世俗、天才vs凡才という図式だ。このような、よくある図式においては、往々にして芸術や天才そのものについては語られず、それはただ、よくあるかたちで消費されるのだろう*1。うーん、もったいない……というのが率直な感想だ。
ニキフォルは昨年ハウス オブ シセイドウで開催された「アール・ブリュット」展で紹介されていた画家のひとり。この展覧会には、たしか教会を正面から描いた、わりと大きなサイズの作品があった。ちょっとおかしな配色と几帳面な描写の組み合わせがなんだか異様な印象を与える一方、全体としては、なんとか絵画としてまとまって見えないこともないという、妙に気になる作品だった。ただ、この映画を見るかぎり、ニキフォルは比較的小さなサイズの作品しか描いてないようだから、あれは別の作家の作品だったのかもしれない。

*1:この点、『≒会田誠』は──パーティの場面は少々冗長に思えたものの──、天才という神話に目もくれず、会田誠の俗っぽさと、無防備さ、そして意外に(?)真摯な制作態度を露呈させた面白いドキュメンタリーだった。そういえば、坂本龍一藤田嗣治を演じるという企画をどこかで読んだか聞いた気がするのだけど、あの話はどうなっているんだろう。