杉本博司の昭和天皇

杉本博司は2年前、銀座エルメスで開催された「歴史の歴史」展で、自ら収集した古美術品と自作を巧妙に組み合わせ、杉本マジックとでもいいたくなるような不思議な空間を立ち上げていた。それに比べるとシンプルではあるものの、森美術館で開催中の「時間の終わり」展は、やはり展示が巧い。あまりに巧すぎて損ではないかというくらい巧い。それはようするに、ケイリー・グラントの流暢な口説き文句よりも、伊藤淳史電車男みたいな不器用な告白に真実を見いだそうとするひとがいるだろうという程度のことなんだけど、考えてみれば、杉本は何を見せるかというより、どう見せるかに拘る作家なのだ。もちろん杉本にとってモチーフの選択は決定的ではある。ただし、今回のような展示を見ると、やはり、その後の見せ方にこそ、その作家性が如実に表れるなあと。
ああいう作品はシリーズで見たほうが説得力がある。一点々々のアイデアや仕掛けは、単純かつ当然どれも同じなのに、嘘も本気で吐くうちに真実になるというか、単純なレトリックも積み重ねるうちに思いもよらぬ効果を挙げるといった類のリアリティを感じさせる。たとえば、自然史博物館のシリーズは図版で見ると本物っぽいけど、実際の作品を目の当たりにすると、ジオラマジオラマらしさは明らかで、それなのに一点ずつ眺めるうちに、その嘘っぽさが反転するような錯覚に陥る。名建築をピンボケで撮るシリーズなどは、図版で見るかぎり、何をやりたいのかさっぱりわからなかったのだけど、あのように並べられる「なるほど」と納得したくなる。……と、まあ、自分でも誉めてるつもりなのに、そうでもないような、よくわからない書き方になってしまったが、狐につままれた感も含め、面白い展覧会だ。
ところで、今回は、ほぼすべての作品がシリーズごとに一室を与えられているが、若干別格扱いの一点がある。「肖像」シリーズの昭和天皇像だ。観客は順路に従ううちに──半ば過ぎあたりの位置だっただろうか──否応なく、正面から、通路奥に単独で飾られたそれと相対することになる。このような構成は、やはり政治的配慮によるものというべきなのだろう。ただ、なんらかの配慮であることは明らかで、また実際相応の説得力があるにもかかわらず、それがどのような配慮なのかというとなかなか判然としないのではないか。納得せざるをえないのだけど、どう納得すればいいのか、みたいな、居心地の良さと悪さを感じてしまう。いずれにしても、僕にとっては、昭和天皇の晩年の風貌が好きということもあり、実物よりもやや大きめのその半身像は、もっとも見応えのある作品ではあったのだが。